第一章 十六歳の娼婦
二〇三号室のドアの前で、東さんがお金を受け取っている。
東さんは『キャッツ』のボディガード担当で、ラグビーだか柔道だかわからないけれどとにかく何かのスポーツで鍛えまくったであろう筋肉のみっしりついた身体をしていて、サングラスで隠した目は鷹のように鋭い、強面中の強面だ。ラブホテルまでの女の子の送り迎えと、お客さんとの代金のやり取りは東さんに任されている。
東さんとお客さんとのやり取りが終わると、いよいよあたしとお客さんのご対面だ。
「おー、西さんに可愛い子お願いしますって言ったら、ほんとに可愛い子がきちゃった。君、マジ、タイプだよ」
なんて二十顎をたぷたぷ揺らしながら嬉しそうに話すお客さんは、見事なオヤジ。見事なハズレ。あたしは五月に十六歳になったばっかりで、多くの十六歳の女の子がそうであるように、だらしなくぶよぶよ太ったオヤジの身体なんかに欲情できない。あたしが濡れるのは、華奢で、でも筋肉がしっかりついていて、お腹がぺったり凹んだきれいな身体の若いイケメンだけだ。オヤジとのセックスなんて、ゴキブリとセックスするのと変わらない。
「君、名前は?」
「千咲」
「千咲ちゃんかぁ、可愛い名前だね。キスしてもいい?」
「まずはシャワー浴びてからにしてください。あとちゃんと歯磨きもして」
こんなオヤジのキスなんて気持ち悪くて嘔吐勘を堪えるのに必死なだけだろうけど、少なくとも歯を磨かない状態でキスなんてしたくない。煙草臭いのはまだ耐えられるものの、ニンニク臭かったりしたら最悪だ。いいでしょーちょっとくらい、としつこいお客さんをなんとかなだめ、バスルームに連れて行く。
「きれいだなぁ、千咲ちゃんの身体」
一緒にシャワーを浴びながらお客さんが言う。背が低くて胸もないのに、それでもこの人はこんな貧相な身体をきれいだ、と形容してくれる。勿論お金が欲しくてこの仕事をやってるわけだけど、あたしは確実にお客さんからそれ以上のものを求めている。可愛い。きれい。ソソる。気持ちいい。そういう言葉たちを。
「ダメだ、我慢できなくなっちゃった」
ホテル備え付けのスポンジにボディソープを染みこませてたっぷり泡立て、できそこないのスライムみたいなぶよぶよの身体を洗っていると、お客さんは上ずった声を漏らした。肉に埋もれてよく見えなかったけれど、そこはたしかにびんびんに張りつめている。
なんとか最後まで身体を洗い、いそいそとシャワーで泡を流して、身体を拭くのもそこそこにお客さんはあたしをベッドへ押し倒した。気持ち悪いだけのキスと気持ち悪いだけの愛撫と気持ち悪いだけの挿入。どこを触られても、どこを舐められても、身体の中心を思い切り突かれても、あたしの身体は快感のスイッチがぷっつり切られていてびくともしない。頭の中では早くこの苦痛極まりない時間が終わることを、そしてこのプレイで手に入る二万五千円の使い道を考えていた。二万五千円もあれば、109のワンウェイで紙袋ふたつ分買い物できる。でも、ココルルやアルバローザも捨てがたい。ほんとは聖良みたいに、リズリサやローズファンファンのフリフリの服を着てみたいんだけど、顔が負けてるから似合わないし。
そんなことをひたすら考えているうちに、ようやくあたしは懲役のような時間から解放された。キモいゴキブリオヤジとセックスの刑、終了。
「千咲ちゃんは、どうしてこの仕事をしているの?」
行為の余韻に浸りつつ、マイルドセブンに火をつけながらお客さんが言う。あたしはよく聞かれる質問に常套句で返す。
「お金が欲しいから」
「ほんとー? お金が欲しいんじゃなくて、セックスが好きだからなんじゃないのー? してる時の千咲ちゃん、すごかったよぉ。あんあんあんあん」
そりゃ喘ぐわ、仕事なんだから。お金のためなんだから。あんたが気持ち悪くて、一刻でも早くあんたのその醜い身体から解放されたくて、こっちは必死であんあん言ってんだよ。
本音を飲み込み、つん、とお客さんのぷりぷり太った頬を人さし指で突く。
「もう、意地悪。そんなこと言うと次から一切声出しませんよー」
「えーそんなの駄目。どうしてそんな意地悪言うのぉ」
トシに似合わない甘ったるい声が、本気で気持ち悪かった。気持ち悪いオヤジなんて、この世から滅亡してしまえばいいのに。
『キャッツ』は待機所代わりにカラオケ館の2階を使っている。ブックファーストが窓から見える、見晴らしのいい部屋だ。東さんと共に戻ってくると、電話番の西さん、そして薫と聖良とひよりが出迎えてくれる。
「お疲れ様―」
「お疲れ! ねー、千咲の初体験って何歳だった?」
「十五。中三の時だから。いきなり何?」
「十五歳だって。中三だって。平均だねー」
見ると、薫たちが見入っているのはポップティーンのセックス特集のページだった。初体験は何歳とか、経験人数は何人かとか、赤裸々な読者アンケートの結果が綴られている。
「経験人数三人~五人ぐらいが四十パーセントだって。みんな意外と身持ち、固いんだなぁ」
読者の生の声に目を輝かせている薫は、『キャッツ』の人気ナンバーワン。背が高くて胸が大きくて脚も長くて、マウジーとかエゴイストとか辛口のボーイッシュな服がよく似合う。ちんちくりんのあたしはよく、こんな身体に生まれたかったな、と思う。
「でも、処女が十パーセントもいるよ。これ、ポップティーンのアンケートでしょ? もっと少ない、五パーセントくらいかと思ってた」
なんて言うのは聖良。茶髪全盛期の二〇〇一年、あえて染めない真っ黒い髪をきれいに巻いたアイドルみたいに可愛らしいルックスの聖良は、とても痩せていてフリルや花柄をお姫様みたいに着こなす。
「わたしたちみたいなのがこのアンケートに答えたら、パーセンテージものすごいことになるんだろうね」
ちょっと小さい声で呟いたひよりは、オレンジ系の茶髪をショートボブにした、少しおとなしい子だ。難しい言葉をよく知っていて勉強もできそうなのに、こんな優等生タイプがホテトルなんかで働くなんて、未だに信じられない。
「そりゃ、ホテトル嬢がこんなん答えたら駄目でしょ。経験人数百人越えが百パーセント! あはっ、マジうけるー」
自分で言ったことに自分で笑ってる薫。ファンデーションを塗る前に下地を塗ることも知らなかったあたしは、この子からメイクのいろはを学んだ。待機時間の度にレッスンをしてもらい、今ではばりばりのギャルメイクが通常運転だ。
「でもさ、セックスが好きか嫌いかって質問に、嫌いが五十パーセントもいるんだね? 好きが三十パーセント、どちらでもないが二十パーセント。ポップティーン読む子ってみんなギャルなのに、みんなセックス、好きじゃないんだなぁ」
聖良が軽く眉を顰めながら言う。ちなみに薫がメイクの先生なら、聖良は巻き髪の先生。コテの使い方を教えてもらったお陰で、背中の真ん中らへんまで伸ばしたあたしの茶色い髪は今日も見事なウェーブを描いている。
「そんなこと言うならわたしだってセックス、好きじゃないよ。仕事の度に、早く終わればいいのにって思っちゃう。何されても気持ち悪いだけ」
ひよりの言葉にうんうん、全員が頷いた。
「キモいオヤジとのセックスなんて、キモいだけだもんねー。セックスは若いイケメンに限る! 結論!」
「オヤジの前でそんなこと言われると、ちょっと傷つくなぁ」
西さんが会話に入ってくる。ツンツン立てた短い金髪に手首を彩るブルガリの腕時計、小太りの身体を覆い隠すチャラけたファッション。いかにも夜の世界の住人、て感じの西さんはおそらく三十代の後半か、四十過ぎ。
『キャッツ』の入店初日、西さんから講習を受けた。仕事の流れを説明した後、当たり前のように二人でベッドに入り、最後までされた。千咲ちゃんは感度が良くていいねぇ、きっと売れるよ、と言われ、いやあれ全部演技です、まったく気持ちよくなかったです、とばっさり切り捨てると、西さんはそれはこの仕事に必要なスキルだよ、と苦笑していた。
相手がゴキブリ並みにキモいオヤジでも、ホテトル嬢はベッドの中ではAV女優にならなきゃいけない。男の理想のエロい女の子、をそれぞれの方法で演じる。それがあたしたちの仕事。
「そんなこと言ったって、それがあたしたちの本音なんだからしょうがないじゃーん」
「そうですよ、西さん。私たち、いつも吐き気を堪えながら仕事してるんです。いくらお金もらったって、生理的に無理なものは無理だし」
「でもその分、給料はいいんだよ? 君たち、本物の女子高生なんだから。二時間で二万円以上もらえるホテトルなんて、普通はないよ? 相場はその半分ぐらいなんだから」
知らない人のために説明しておくと、ホテトルとはいわゆるデートクラブみたいなもの。ホテトル、というのはホテルでトルコ風呂気分、というキャッチフレーズから来ているらしい。トルコ風呂が昔のソープランドのことを言うのだと、西さんが教えてくれた。
二か月前、家出して渋谷に出て来た時はソープとヘルスとイメクラの違いもわからなかったあたしだけど、今ではそれなりに風俗の知識はある。ちなみにこのホテトルは本物の女子高生を使っていることからわかる通り、違法風俗。警察のガサが入ったら、即閉店だ。
「二時間で二万や二万五千じゃ足りないよ。百万ぐらい欲しい! うちらがもらうお金は給料じゃなくて、合意の上でのレイプに発生した示談金なんだよ?」
薫の合意の上でのレイプ、という言葉に全員が噴き出した。ほんとに、風俗なんてそんなもの。お金がもらえるレイプ。
「合意の上でレイプって、レイプじゃないよ。薫、レイプの意味わかってる?」
「わかってるってばひより、いくらあたしでもそんなに馬鹿じゃないよ。ほら、ポップティーンにも載ってるし。レイプ体験談。ちょっと危ないエッチな話、だって」
「わぁやめてよ薫、私、そういうの無理」
聖良が苦いものを口にした時のような顔をする。
学校に行ってなくても、ホテトル嬢でも、あたしたちはみんな普通の女の子だ。オヤジとのセックスは拷問のように気持ち悪いのに、若い男相手だと獣のように感じてしまう。ファッションとメイクとヘアアレンジに余念がなくて、マルキューが大好き。傍から見れば、ポフップティーンの街角スナップに載ってる女の子たちと何ひとつ変わらない。
そこで西さんの携帯が着信を告げた。東さんはボディガード担当で、西さんは電話番。誰でもわかると思うけれど、当然本名ではない。本名は知らないし、別に知りたくもない。
「ねぇねー、ぶっちゃけトークの続きしようよ。みんなは初体験、いつだった?」
西さんの電話を気にして、薫が声のボリュームを小さくした。ひよりが顔を曇らせながら言う。
「中二の時だったから、十三歳」
「十三歳か。はっやー! 相手は彼氏?」
「彼氏だよ。一応」
「一応ってところが気になるなぁ。聖良は?」
「中一だから十二歳」
「十二歳で初体験! 聖良がトップだね」
「そう言う薫はいつだったの?」
あたしはバッグの中からペットボトルの緑茶を取り出してひと口飲んでから聞く。西さんの電話はまだ続いている。
「中三、十五歳。彼氏と付き合って、クリスマスに一か月記念エッチしたの。あー、こん中じゃああたしが最下位かぁ」
「あたしだって中三だよ」
そう言うと、薫がぐいと身を乗り出してくる。
「中三のいつ? 春? 夏? 秋? 冬?」
「夏休み」
「ほらやっぱ、あたし最下位じゃーん! 夏休みに初エッチ、なんてそれこそ少女マンガみたいで素敵なのに!」
「別に、早く経験すればいいってものじゃないでしょう」
ひよりが至極真っ当なことを言った次の瞬間、西さんの電話が終わった。
「聖良ちゃん、お客さん。あと十分くらいで支度できる?」
「はーい」
返事をしながら聖良がいそいそとメイクポーチを取り出す。聖良のメイクはフェミニンなファッションに合わせて、とても可愛い。サーモンピンクのチークに、ラメ入りのグロス。桜貝の色に塗った爪にはプルメリアが品よく咲いている。
「他の三人もいつでも出れるように、支度はきちんとしておくんだよ。今日はこれから、忙しくなりそうだから」
西さんが言った。その口調はまるで不出来な生徒に対する先生のそれだった。
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