第四章 痛い過去
学生は、まもなく夏休み。普段から学校なんて関係ないという子どもたちが昼間からうろついている渋谷の街だけど、いよいよ本格的な夏が始まるとなると、街は水を得た魚のようにいよいよ活気を増す。マルキューは相変わらずセールをやっていて、ギャルたちは原色の夏服に身を包み、太陽は乱暴なほどの日差しを振りまく。あたしは流行りのワンショルダーを着るために、ニプレスを買った。乳首を隠す、絆創膏みたいな小さなシール。Bカップの貧相な胸だから、ニプレスだけでもさほど不自由はない。
平日の昼間は、店は暇だ。若い女を買う男たちは、日が暮れてから渋谷を訪れる。まったく電話が鳴らず、西さんも東さんも欠伸をかみ殺しているので、あたしたち四人はお客さんが入ったという連絡が来るまで、渋谷を屯することにした。今日の目的地はマルキューじゃなくて、センター街。スペイン坂にある、薫がお気に入りのギャル服の店で、セール品をチェックする。
「ひよりさぁ、これ買いなよ! このワンピース、絶対ひよりに似合うって!」
薫がハンガー片手にひよりに押しやったのは、水彩画風のひまわりがプリントされたワンピース。ホルターネックで首の後ろでリボンを結ぶ作りになっていて、谷間が丸見えだ。
「えー、こんなの恥ずかしいよー。薫が着なよ」
「ひよりって、ほんと自分のスペック生かせてないよね。せっかく胸があるのに、胸が目立たない服ばっかり着てるじゃん。谷間は武器なんだから、思いっきり見せたほうがいいよ」
薫の言葉に、えーでも、とひよりは困り顔。せっかくだから試着だけでもしてみな、という薫に押され、試着室に入ったひよりは、三人からグラビアモデルみたいだとかやっぱ巨乳だからこういう服が着こなせるんだとか、口々に賞賛の言葉を発し、結局ひよりはその賞賛を素直に受け止めなければという思いなのかワンピースを買った。薫もTシャツを二枚買った。その後はお昼に何を食べようか四人で思案したけど、結局いつものマックで落ち着いた。
「ねぇねぇ、みんなって今、好きな人いるー?」
チキンナゲットをバーベキューソースに浸しながら薫が言う。マックで恋バナ。学校だの部活だのルーズソックスだの、一般的な青春からはほど遠いところにいるあたしたちだけど、こういう時はみんなの瞳が少しだけ乙女になる。
「今は特にいないかな。そういうの、考えられないっていうか」
ワンピースを押しやられた時と同じ、困り顔でひよりが言う。マスカラで彩った目の端に、どことなく翳を感じる。
「今はってことは、前はいたの?」
そう聞くと、ひよりは小さく首を縦に振った。
「中学の時、付き合ってる人いたよ。中二から一年ぐらい」
「じゃあその人が初体験?」
「そう」
「おぉー、いいなぁー。今その人とは連絡取ってないの?」
「もう会うこともないと思う」
そう言ったひよりの暗い口調に何かが秘められていると感じ取ったのは、きっとあたしだけじゃない。過去の恋の話をきっぱりとそれで終わらせてしまったひよりをフォローするように、聖良が話を切り出す。
「私は付き合ってないけど、いい感じの人はいるよ。この前、一緒にご飯行った!」
「いくつくらいの人?」
薫の質問に、聖良は恋が始まる直前の一番幸せな瞬間をうっとり味わうような顔で答える。
「四歳年上で、今ハタチ。大学生なんだ」
「その人には仕事のこと、なんて言ってるの?」
眉を軽く顰めながらひよりが言うと、聖良は苦いものを飲み込んだような顔をする。
「キャバだって言ってる。歳も十八だって、嘘ついてるんだ」
「まぁ、そうなるよねー。この仕事のこと、普通の人には言えないよねー。言った途端に関係終わるに決まってるもん」
薫がシェイクのストローから口を離して言った。
別に自分の仕事を、悪いことだと思ったことはない。本来なら若い女の子に絶対相手にされないようなゴキブリみたいなキモいオヤジたちに身体を提供してやってるんだから、むしろ善行していると褒められてもいいくらいなのだ。でも、薫の言う通り、普通の人には仕事のことは言えない。悪いことはしてないけれど、後ろめたいことはしている。普通の感覚からしたらドン引きされてしまう、あたしたちの仕事。
たぶんあたしはこれから一生、仕事以外で普通の人たちと、つまり昼間の人間たちと、関わることはないだろう。それを寂しいなんて思っちゃいけない。親を捨て、故郷を捨て、夜の世界で一生生きていくと決めた以上、つまらない感傷を抱く権利なんてないんだ。
「そう言う薫はどうなのよー。言い出しっぺな以上、教えてよー。いるの? 好きな人」
聖良がにやりと唇を歪めて言う。薫はかはは、とポテトを咀嚼しながら豪快に笑った。
「それが、いないんだよねー。見事に出会いなし! まったく、あたしたちってば毎日男とヤリまくってるのに、いざ恋愛となるとまるでご縁がないんだもん。いい感じの人がいる聖良が羨ましいよ」
「薫にもいつかご縁があるって! 恋愛は、こればっかりは、自分の力じゃどうにもできないからね。勉強やスポーツみたいに、頑張れば頑張るほど成果が出るってもんじゃないから」
達観したことを言う聖良の隣で、頷いていた。本当に、あたしの唯一の恋愛は頑張っても何も成果が出なかった。祐平に女の子として見てもらいたくて精一杯おしゃれしてみたこともあったけど、色気で挑発しようと思いっきり短いスカートで祐平の部屋を訪れたりもしてみたけど、すべてはまったく無意味だった。祐平はあたしじゃなくて、七緒を選んだんだから。
「千咲はー? この前ラブホ行ったっていう男と、その後会ったりしてないの?」
薫が言う。歌舞伎町で律希と会って一週間。あの日から一度も、連絡していない。
「一度だけ会った。でもお互いまったく、恋愛感情ない。たぶんもう会うことないかも」
「えー。せっかくのチャンスをふいにしちゃうの? 勿体ない」
「お互いそういう気がないんだもん、どうしようもないよ」
本当は、あれから何度も律希のことを思い出している。正確には、律希が打ち明けた人智を越えた能力と、その能力に頼るかどうかを。
あの縁日の日に戻れたら、今が変わるかもしれない。変わらないかもしれない。確率は五十パーセントくらいだろうか。いや、もっと少ない? そんな不確かなことに簡単に挑めるほど、あたしは無鉄砲じゃない。
十八時を過ぎて、ようやく西さんの携帯が鳴るようになった。
大っぴらに看板を掲げ、客を集められないこの店では、『女の子だけのお店なの♡ あなたのカラダもココロも、たっぷり癒しちゃう♡』なんて、見ているほうが鳥肌が立つほど恥ずかしくなるキャッチコピーと共に西さんの仕事用携帯の番号を貼り付けたテレフォンカードサイズの小さなチラシを、渋谷の街じゅうに貼り付けて客を募る。電話ボックスなんて、チラシで一面ずらーっと埋まっていて、普通に電話をかけたい人が気の毒になるくらいだ。あたしは会ったことはないけれど、「撒き屋」というチラシを撒く仕事を専門にしている人がキャッツを陰から支えているらしい。
それだけの努力の甲斐あって、今日も夜から忙しくなりそうだ。薫と聖良は仕事に行き、西さんと東さんはドンキホーテで買い物。二人きりになったカラオケ館の一室で、ひよりはぽつりと呟いた。
「ねぇ、千咲はなんで、この仕事してるの?」
隣の部屋がカラオケで盛り上がっていたら聞き取れなかったであろうくらい、小さな声。あたしは飲んでいたウーロン茶のグラスを置き、答える。 「えー、そりゃ、家出してるから金に困るし。中三からエンコーしてたから、今さら普通に働くのもダルいし。ひよりだって、お金が欲しいからこの仕事してるんじゃないの?」
「もちろんだよ。こんなに高いお金がもらえなかったら、気持ち悪いおじさんたちとセックスなんてしたくないもん。でもあたし、薫にも聖良にも言ってないけど、こういう仕事する本当の理由があるんだ」
「理由って?」
あんまり、楽しい話じゃないんだろうな。そう予感しながらマルボロに火を点ける。煙草を吸うのは、一日に四回か五回くらい。断じてヘビースモーカーではない。でもこういうしんみりした空気の時は、なぜか脳がニコチンを欲する。
「わたし、中学生の時に付き合ってる人がいたって言ったよね?」
「言った」
「その人の子ども、堕ろしたの。中三の初めに」
口から出た煙が変な形になった。
ひよりの言う「本当の理由」は、あたしが想像してるよりずっとハードで、十六歳の女の子には抱えきれないものだった。でもその一言で、すべて察してしまった。ひよりが何から逃げているのか。何が辛くて、学校にも行かずにこんな捨て鉢な行動に走らせているのか。
「産みたかったよ、本当は。でも親が許してくれなくて、相手の彼氏にも捨てられちゃって、半ば強引に産婦人科連れて行かれて、中絶させられて。妊娠した、どうしよう、って最初に相談した友だちは、二人だけの秘密だよって言ったのに、別の人にすぐそのこと言っちゃって、気が付いたら学校中にわたしが妊娠して中絶したことが知れ渡ってた。それからの毎日は、地獄だった。子殺し、ヤリマン、最低女って、いじめられたんだ。毎朝登校してくると、必ず机に落書きがしてあるの」
「だから、不登校になったの……?」
ひよりが首を縦に振った。灰を落とすのに失敗して、灰皿の外に黒い滓が散らばった。
「とても学校になんて行ける精神状態じゃなくて。親はすごく心配してくれて、フリースクールを勧めてきたけれど、そこも行く気になれなくて。高校は、同じ学校の子が一人も行かないところを受験したよ。高校生になったら何かが変わるって期待してたけど、何も変わらなかった。むしろ、学校に行くのが怖くなった。同じクラスの子みんなが、死んだ魚の目をしているみたいで。表面上はヘラヘラ笑ってても、心の中では何を考えているのかわからない。明日からまたいじめが始まるかもしれない。そんな恐怖に囚われて、学校に行く足が重くて。ある日、高校とは反対方面の電車に乗って、渋谷に来たんだ。平日の真昼間から制服で歩く渋谷は、とっても楽しかった。一人ぼっちだったけど、一緒に遊ぶ子なんていなかったけど、わたし、解放されたんだー、って思った。マルキューでトイレに入ったら、便座の下にチラシが貼り付けてあった。キャッツの求人募集チラシ」
「あたしもそれ、見た。マルキューの地下一階のトイレでしょ?」
うん、とひよりが心なしかさっきより明るさを取り戻した顔で頷く。
大っぴらに女の子を募集できない違法風俗のキャッツでは、女の子も小さなチラシで集める。『女の子だけのお店だよ♡ 誰でもできる簡単なお仕事で 一日ビックリ五万円以上!』なんてパステルカラーの丸文字が躍り、西さんの携帯番号が書きつけてあるチラシ。マルキューのトイレに貼ってあることからして、あたしたちが知らない「撒き屋」はおそらく女性なのだろう。
「どういうお店なのか、どんな仕事なのか、なんとなくわかってたよ。わかってたけど、その日のうちに電話した。わたしは子どもを堕ろすなんて最低なことをしたんだから、こうなったらもっともっと最低なことをしたいと思ったんだ。星の数ほどの男と寝て、寂しさも苦しさも何も感じないサイボークみたいな人間になりたいの」
「なんとなくわかる、その気持ち」
経験がない人には絶対わからない感覚だと思うけれど、金をもらって愛のないセックスをすると、自分が少しだけ強くなれる。そういうセックスをすればするほど、強くなれる。それはあくまで錯覚なのかもしれないけれど、根本的なところは何も変わってないかもしれないけれど、社会で悪とされる行為に積極的に手を染めることで、自分が少しだけ特別な存在になれたような気になれるのだ。未成年が酒を飲んだり煙草を吸ったりするのと似たようなものだ、と言ったら多少は伝わるのかも。
「千咲にも、ある? お金以外の、この仕事する理由」
おっかなびっくりといった調子で、ひよりが聞く。あたしはかぶりを振って、まだだいぶ吸えるところの残っている煙草の火を消した。細い煙がふらふらと立ち上る。
「あるけど、ひよりからしたら全然つまらない、チープな理由。聞くだけ無駄だよ」
一方的に秘密を打ち明けて、自分は打ち明けてもらえなかったのが悲しかったのか、ひよりの顔が寂しそうに崩れた。
でも本当に、ひよりには言えない。妊娠とか中絶とかいじめとか不登校とか。そんな、あまりにも重い荷物を背負っているひよりに、まさか失恋が原因でエンコーして家出してホテトル嬢になりましたなんて、そんな馬鹿みたいな話はできなかった。
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