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執筆者の写真櫻井千姫

ブログ限定小説「終わりのための11分」第二十二話

あるところでぷつんと、意識が途切れた。テレビを切ったかのように、視界が失せ、聴覚が失せ、なんにもない「無」の状態に放り出された。

 それがほんの数分のことだったのか、一時間、二時間に及ぶものだったのかわからない。

 気が付けばあたしは薫の家の近くの小さな公園でベンチに座っていた。日はとっぷり暮れて、世界は薄墨色に染められている。公園の外灯が、あたしと律希の座っているあたりをまぁるく照らしていた。

 律希は、はぁはぁと苦しそうに呼吸していた。思い切り走った後みたいに、息が切れている。呼吸はどんどん荒く、激しくなる。

「律希!? 律希、大丈夫!?」

「……ち、さき……」

 律希は弱弱しい目で、うっすら笑顔を浮かべて、あたしを見た。

「千咲……よ、かった……また、会えて……」

 そうか、と瞬時に理解する。

 結局、あたしの人生はなんにも変わらなかったんだ。

 祐平にフラれて、結局自棄っぱちになって適当な男の子と付き合って処女を棄て、エンコーに走ったんだ。家出もしたんだ。「キャッツ」で働いたんだ。親も死んだんだ。

 せっかく律希に命の危険を冒してまで過去に戻してもらったのに、何も変えられず、何も変えられなかった自分が悲しい。

「律希、ごめん。あたし、何にも変えられなかった。律希が一生懸命過去に戻してくれたのに、結局、フラれちゃった。ここにいるって事は、あたしが何も出来なかった証拠だ」

 過去に戻れば、「今」が変わる保障なんてない。

 わかっていたはずなのに、現実はあまりにも残酷だった。

 律希は、あたしの言葉には答えない。それどころか、声を発することすらできない状態になっていく。はぁはぁと息を荒げる律希は、胸を押さえ、公園の薄汚い地面に倒れ込んだ。身体じゅうがひどく痙攣している。

「律希! 律希!!」

 あたしは狂ったように律希の名前を叫んだ。

 急に恐怖が襲ってきてあたしをすぽんと飲み込んでしまう。

 このまま律希が死んでしまったら、どうしよう。

 力を使い果たして、命まで失われてしまったら、どうしよう。

 律希のいない「今」なんて、いよいよ何の意味もなくなってしまうじゃないか。

「律希! もうしょうがない、こうなったら救急車呼ぼう!? 病院では、律希はお兄さんって事にしとくから!!」

 あたしはあわあわと携帯を取り出す。

 慌て過ぎて、一一〇にかけるのか、一一九にかけるのか、咄嗟にわからなかった。消防署だか病院だかの人は、あたしが今どこにいるのかを聞いてきた。薫の家と最寄り駅以外は、地名なんてわからない。何か月もほとんど住まわせてもらってる状態なのに、あたしは薫の住所すら知らなかった。公園を出て電柱を探し、番地を調べる。番地を告げ、患者の様態を告げ、あたしの名前を聞かれて、苗字を偽った。名前も偽るべきだったと、電話を切った後後悔した。千咲、なんて珍しい名前、そんなにあるものじゃない。調べればすぐに、あの火事があった家の長女だとわかってしまう。

 十五分くらいして救急車が到着し、律希は中に運ばれて、あたしも乗り込んだ。救急の人たちはあたしにはよくわからない単語を連発し、走り出した車の中は緊迫感に満ちていた。大人たちが使う専門用語は全然わからなかったけれど、あたしは瞬時に理解した。律希は今とても、危険な状態にある。

「律希は……兄は……助かりますか?」

 一人の大人に聞いた。兄、だというあたしの嘘を、この大人は疑っている様子もなかった。

「病院についてみないとわからない。とにかく手を握ってやっていて」

 許可が出たので、あたしは律希の手を握る。律希ははぁはぁと荒い呼吸を繰り返し、開いた目の焦点が定まっていなかった。

「律希! 律希、死んじゃ駄目だよ!」

 律希がそれだけでもやっとというほどの緩慢な動作で、顔をあたしに向ける。睫毛の長い瞳が、限りなく優しい。

「あたし、律希と海に行きたかった!」

 何も考えないで、そんな事を言っていた。大人たちはあたしの意味不明な言葉を聞き流しながら、黙って作業の手を動かしていた。

「海だけじゃない。山にも、遊園地にも、動物園にも、水族館にも、プールにも! 夏祭りだって、祐平だけじゃなくて、律希とも行きたいんだよ!!」

 言いながら、声に涙が混ざる。どうしても涙が溢れるのを抑えられない。そんな自分を叱る。

 千咲、泣いちゃ駄目。泣いたら本当に、律希が死んでしまう。

「だから律希は、死んじゃ駄目なの! これから一緒にあたしと、いっぱい楽しい事するんだよ! いろんなところ行って、美味しいもの食べて、好きな仕事をして、幸せになるんだよ! それができないうちに、死なないで!!」

「もうすぐ病院につくからね」

 大人の言葉が、あたしを少しだけ落ち着かせる。

 病院につくと、律希はタンカーにのせられ、集中治療室へ運ばれていった。一刻も早く、救命措置が必要らしい。あたしは、待たされた。八月の終わり、リノリウムのしんとした病院の廊下で、律希が出てくるのを待った。

 あたしは初めて、かつて呪った神に祈った。

 神様、どうか律希を助けてください。律希を生かしてあげてください。

 律希は身体を売る仕事をしていたけれど、それは仕方のない事だったんです。そうする事でしか、生きていけない人だったんです。

 あたしも、同じ種類の人間だからよくわかる。

 神様、あなたは罪人には優しいんでしょう?

 罪人ほど、神の道に近いって聖書に書いてあったでしょう?

 だったら、売春夫だった律希を助けてあげてください。

 そのためなら、あたしの命を差し出してもいいから。

 あたしの寿命と引き換えに、律希を助けて。

 何時間が経過したのかわからない。集中治療室のドアが開いた。出て来た白衣姿の医師に、あたしは取り縋る。

「律希は!? 律希は大丈夫なんですか!?」

「それが……」

 医師は困惑の表情を浮かべた。反射的に、悪い予感がぶわっと膨れ上がる。

 神様なんて、やっぱり残酷の人でなし野郎だ。

 こんな必死に頼んでるのに、あたしの願いを聞いてくれなかった。

「消えたんです」

 医師は、予想外の言葉を口にした。

「消えた……?」

 涙で上ずった声が掠れていた。何を言われているのか、さっぱりわからなかった。

「私と看護師たちが目を離している、ほんの一、二分の隙に、消えたんです。ベッドの上から、きれいさっぱり。とても、歩ける状態じゃないのに……律希さんの姿は見ていませんか?」

 あたしは放心しながら、首を振る。

 そして医師を突き飛ばし、制止の言葉を振り切り、集中治療室に飛びこむ。

「律希! 律希、どこにいるの!? 出てきてよ!!」

 叫ぶあたしを、医師と看護師が落ち着いて、と背中を撫でる。

 たしかに白い部屋のどこにも、律希はいなかった。

 空っぽのベッドの周りに、様々な機械が備え付けられていた。

 脈拍を示しているのであろうパネルに、0の表示。

 それは、律希が死んでしまったのではなく、この機械に繋がれていないって事を現わしている。

「律希! 律希! 出てきて、律希! こんな時に隠れんぼなんて、やめて! 出てきてよ!!」

「落ち着いて下さい」

 泣き叫ぶあたしは廊下に出され、そこでもしばらく泣き喚いていた。全身の力を使って、生まれたての赤ん坊のように、駄々をこねる子どものように、あたしは泣き続けた。

 律希に不思議な力があることはわかっていた。でも、消えちゃうなんて、そんな事は思いつきもしなかった。

 過去に戻す能力を与えられた人間は、この世から消える時空の肉体すら残らないってこと?

 何が起こってるのか、まったくわからない。あたしの悪い頭は、この摩訶不思議な状況をどうしても受け入れてくれない。

 やがて、静かだった廊下に人が入ってくる。まっすぐな、深みのある靴音が近づいてくる。

「――千咲ちゃんだね?」

 男の人が、そう言った。あたしは涙を拭いながら答える。

「そうですけど……」

「渋谷のホテトル、『キャッツ』で働いていた。間違いないな?」

 固い声にあたしはようやく我に返り、顔を上げた。

 そこにいるのは、二人組の男の人。どちらもたぶん、四十代か五十代。くたびれたスーツを着ているけれど、どちらとも顔つきがまったく、普通の人じゃない。

「『キャッツ』は今日、摘発された。女の子たちも全員捕まった。君にも、署まで来てもらいたい」

 いちばんひどい時に、いちばん恐れていたことがやってきてしまった。



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