律希がアスファルトの上で、笑ってた。不思議な事に、あたしは歳を取ってるのに、律希は十六歳のままだった。信じられなかった。何かに騙されてるんじゃないかと思った。だって、律希が二十年も経ってあたしの前に現れるなんて、そんな事あるわけない。
律希はたしかに「消えた」のに。
「消えた」? どこへ?
何も、「この世から消えた」なんて、決まったわけじゃない――。
「最後の力を振り絞って、念じたんだ。僕を未来に飛ばしてください、って」
律希が得意げに微笑む。その笑い方は、記憶とまったく変わらなかった。
確信する。この男の子は律希だと。
「未来に行って、千咲に会いたい。それが僕の、最後の願い。たぶん、十一分しかもたないけど」
「そんな、なんで……」
「だって、千咲が心配だったから。僕も千咲も、夜の世界でしか生きていけない。そんな千咲がどんな大人になったのか、ちゃんとこの目で見届けておきたかったんだ」
涙がじわり、視界を歪ませる。
自分が苦しい時に、そんな場合じゃないっていうのに、あたしの事を第一に考えてくれた律希。自分の命を削ってまで、あたしに尽くしてくれた律希。
そんな律希に、あたしは何をした?
いつまでも過去の失恋を引きずって、気持ちに応えてやることもせずに。
この思いに気付いた時には、既に遅くて。
誰よりも律希が好きだって、大切だって、伝えることすらできなかった。
「律希、ごめんね」
あたしはぼろぼろ泣いた。三十六歳のおばさんの涙に価値なんてないのに、律希はあたしに近づいて、あの頃よくそうしてくれたみたいに、頭を撫でてくれた。華奢でやわらかい律希の手が、懐かしい温もりが、よりいっそう涙腺を刺激する。
「あたし、過去に行って何にも変えられなかった。未来も変えられなかった。少年院に行って、出所してからはずっと風俗嬢。最低な生き方、してる」
「……そっか」
「今では容姿のレベルが落ちて、普通のソープやヘルスじゃ全然稼げないから、プレイのきつい店に勤めてる。こんなふうになっても、あたし、昼間の仕事、やる気ないんだよ。笑っちゃうでしょう? アラフォーになっても、風俗にしがみついているイタい女なんて」
「そんな事ないよ」
律希がそっと、薄い胸にあたしを抱きしめる。汗と柔軟剤の香りが混ざりあい、鼻孔に優しく流れ込んでくる。
「千咲は千咲なりに、頑張って生きてきたんだってわかるよ。ちゃんと、それなりに、年齢相応に苦労してきたんだなぁって。風俗嬢は、最低な仕事でも最低な生き方でもない。千咲は自分の歩いてきた道に、誇りを持つべきだよ」
「……あたし、何ひとつ持ってない。誇れるものなんて」
職質されて仕事を聞かれたら困るような生き方を、十代からずっと続けている。
風俗の仕事を悪い仕事だと思った事は一度もない。でも、不便な仕事、だとは思う。
人にどんな仕事をしているのか聞かれたら返答に困るし、友だちも店で出会った子と以外は付き合ってない。あたしは「昼間」の世界に完全に目を背けて生きてきた。そもそも、親を捨て、故郷を捨て、自分勝手に一人で生きているあたしに、「昼間」の世界に今さら戻る資格なんてないんじゃないかと、最近では思っている。
「だったら、これから誇れるもの、を作ればいい」
腕に力を込めながら、律希か言う。
「千咲はまだ、人生の折り返し地点にも達してないんだよ。若くして死んじゃった、僕とは違う。千咲にはまだまだ、可能性があるんだ。これから、があるんだ。千咲は千咲なりにこれからやりたい事を見つけて、それに向かって頑張っていいんだよ」
「やりたい事なんてひとつもないもん。あたし」
十代の頃から今に至るまで、夢らしきものを持った事はない。
むしろ、持つべきじゃない、と無意識のうちに自分に言い聞かせてたのかもしれない。
どんな夢も、あたしには叶えられない。だったら最初から、何者にもならなければいいし、何者になる事も考えなければいい。
そう、思っていた。
「諦めちゃ駄目だよ、千咲」
律希はあたしを抱きしめ、髪を撫でながら言う。
あぁ、これが奇跡なんだ。
やっと奇跡が起こったんだ。
律希は神様と言う名の意地悪野郎に殺されたけど、律希は律希自身の力で、ちゃんと奇跡を起こしてくれたんだ。
「千咲はまだまだ、夢を見ていいんだ。そりゃ、十代や二十代の頃に比べれば、選択肢は限られてくるだろうけれど。それでも今から目指したいこれからの事を、考えていいんだよ」
「――ありがとう、律希」
少しだけ、頑張れそうな気がした。
ずっと下ばかり向いて歩いてきたけれど、初めて前を向こうと思えた。
たしかに、三十六歳はまだまだ若い。
おばさんだけど、もう若くもきれいでもないけれど。
おばさんらしい図太さで、出来ることだってちゃんとあるはずなんだ。
「あたし、律希が好きだよ」
律希を抱きしめ返しながら、言葉を紡ぐ。ずっと言いたかったこと。言えなかったこと。
「祐平じゃなくて、律希が好き。ごめんね。あの時、気付けなくて」
「それを聞けて、僕も良かった。僕も千咲が好きだから。愛してるから」
愛してる。
その五文字をどれだけ、求めていただろう。
いくら身体を売っても、お金を手にしても、手にしたお金をブランドものにして鎧のように着飾っても、あたしの心は埋められなかった。
ずっと、愛が欲しかったんだ。
お金なんて、本当は欲しくなかったんだ。
律希に言われたとおり、あたしは小さい頃から親の愛情に飢えていたから。
愛してる、って抱きしめてくれる腕を、ずっと求めていた。
「千咲、僕はこれからたぶん、消える。でも、泣かないで。この世からいなくなっても、いつも心は千咲と一緒だから。天国からずっと、千咲のこと見守ってる」
「ありがとう……律希」
「ごめんね。ずっと一緒にいてあげられなくて」
ぶんぶん、首を横に振った。律希がくしゃり、とあたしの頭を撫でて、そしてあたしたちは笑った。
笑い合いながら、歌舞伎町のアスファルトの上であたしたちは最後のキスをした。
まもなく、律希の身体が金色に発光する。眩い粒子に包まれ、律希の身体が少しずつ透けていく。あたしはそれを必死で押しとどめようと、消えていく律希を抱きしめた。
「律希。まだ駄目。行かないで」
「ごめん。もう、無理なんだ」
律希は困ったように笑って、そして蛍のような光を散りばめながら夜の空気に溶けていった。
律希が消えた路上に、あたしはしばらく泣きながら立ち尽くした。何人か、同業者っぽい人たちがあたしの横を通り過ぎていくけれど、泣いているあたしを気にする人はいない。涙はいくらでも溢れて、溢れて、止まらなかった。
あたしは、これから、ちゃんと生きよう。自分のやりたい事を、ぼんやりとでもいいから見つけよう。それに向かって、今まで一度もしてきた事のなかった努力ってやつをしてみよう。
頑張れなかったのは、その人のために立派な姿を見せたい、と思える人がいなかったから。
自分の事だけ考えて生きてきたから。
あたしには、まともになるだけの理由が、なかったんだ。
でも今のあたしには、律希の魂がついている。律希の心がついている。
律希とあたしはこれからもずっと一緒なんだから、大丈夫だ。
「お姉さん、何泣いてるの?」
斜め上から降ってきた声に、振り返る。四十代半ばくらいの、年齢にそぐわないファッションと髪型の男が立っていた。
「俺で良かったら、話、聞くよ? そこのバーとかで」
あたしは力強く、首を横に振る。
「あたし、彼氏いるから、男の人と飲んだりとかできないんで。ごめんなさい」
それだけ言って、歩き出した。
ハイヒールが立てる靴音が、元気よく歌舞伎町の夜の底を揺らした。
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