第十章 終わりのための十一分
律希に電話をかけると、一度目は出なかった。十五分置いて、もう一度かける。電車の中なのかと思い、次は一時間置いた。ようやく繋がった。
「あたし、決めた。律希の力で、過去に戻る」
「了解。千咲が決心してくれて良かった」
それから、奇妙な間があった。律希は、自宅へ――正確には、身体と代わりに宿を提供してくれる男の家へ向かって――歩いているところなんだろう。周りがガサガサと賑やかで、靴の音がした。
「でもほんとに律希、大丈夫なんだよね? あたしのセッションで力を使い切って、死んだりしないよね?」
「もしそうなったら、本望だよ」
律希の声には本物の感情が込められていた。
「千咲のために死ねるなら、僕は後悔しない。千咲が過去に戻って、僕と出会うこともなくて、大好きな人と結ばれるなら。それが、千咲にとってベストな人生なんだから」
「あたしは嫌だよ。律希が死ぬの」
どうして、こんなに簡単な事が伝わらないんだろう。
それどころか、死ねるなら後悔しないなんて、そんなこと簡単に言えてしまうんだろう。
律希はきっと、生きてる事が辛いんだ。だから、どうすればいちばん自分が格好よく死ねるか、その方法を探している。
「あたし、嫌だから。律希を殺してまで、過去になんて戻りたくない」
「殺すって。そんな事になったとして、千咲に何の罪もないよ。僕が言い出したことなんだから」
「それでも、律希が死ぬのは耐えられない」
この感情は、何なんだろう。
好きなのは祐平。セックスして気持ち良いのは律希。会いたいのは祐平。失いたくないのは律希。
名前のつけられない感情が、あたしの胸の内でぐるぐるしている。
「大丈夫だよ、たぶん。今普通に、しゃべれるくらいなんだから」
「だって、さっきは本当に苦しそうにしてたじゃない」
「だから、発作みたいなもんなんだって。千咲のセッションをして、それからしばらくセッションをしなければ、僕の身体は普通の人と変わらなくなる。自分でわかるよ。自分の寿命くらい」
「でも律希、この前は僕は長くないって言ってた」
「それは、毎日セッションをやってればの話。千咲のセッションを最後にして、あとは普通に身体だけ売って生きてれば、ああいう事にはならない」
「身体売って生きてる時点で、普通じゃないんだけどね」
あはは、と電話の向こう側とこちら側で笑う声が重なる。こんなブラックジョークも言えるくらい、あたしと律希の絆は確たるものになっている。
だから、セッションは受けても、絶対律希を失ってはいけないのだ。
「いつにする? 早いほうがいいよね」
「あたし、今、遠出できないから。また今日みたいに、薫の家の近くまで来てくれれば助かる」
「じゃあ、明後日にしよう。明日は仕事があるけれど、明後日は休みだから」
「律希、絶対無理はしないでよね」
「しないよ」
その言葉がどうしても信じられないのは、律希が死にたがっていることを知ってしまったからだ。
律希は本当に、あたしのセッションをやった事で死んでしまってもいいと思っている。それが、自分にとってベストな死に方だと本気で考えている。
どうして、残されるかもしれない者の気持ちが律希には伝わらないんだろう。
今日二杯目のインスタントコーヒーを飲んだ。携帯から、丸の内サディスティックが聞こえてくる。
「もしもし」
『もしもし、あたしだけど。千咲、大丈夫―?』
薫の元気な声が、今はちょっと耳障りだ。薫の弾けるような明るさが、なんとなくウザい。
「別に大丈夫」
『出歩いてないよね?』
「どこにも行ってない」
嘘をついた。律希に会った、なんて言ったら薫に叱られるだろうし、いよいよあたしたちが付き合っているものだと変な勘違いをされかねない。
『店、今日も暇だよー。十五時から開けてるけど、まだ一回も電話、鳴ってない。あたし、秋の新作のロンT欲しいんだけどさ、マウジーのやつ。この分じゃ今日は無理かも』
「バーゲンでしこたま服買ったんだから、しばらく我慢しなよ。あたしなんてずっと無収入なんだよ」
『まぁ、こんな状況もそんなに長くは続かないって。ニュースでは続報、やってた?』
「ううん、特に何も」
言いながらテレビを点ける。夕方のワイドショーは、呑気に芸能人の不倫スキャンダルに湧いていた。誰も、火事に遭って死んで、娘が行方不明になった夫婦の事なんて気にしていない。
『たぶん、九月になれば続報とか出るんじゃない? 事故なのか、事件なのか、それぐらいはやると思うよ。今は警察も一生懸命捜査してるだろうし、千咲の行方も追ってるだろうから、絶対外出ちゃ駄目だよ』
「わかってるってば」
いつのまにか「キャッツ」が警察にマークされてる事より、あたしが警察に追われてる事の方が一大事になってしまった。下手をすればあたしは売春どころか、両親を火で殺した殺人犯なのだ。未成年だから死刑にはならないだろうけれど、十年は塀の中から出られないだろう。
どうして、死んだのよ。久しぶりに、両親の顔を浮かべて語り掛ける。それは悼みの気持ちではなく、純粋な怒りからだった。
電気コードから出火したのか、天ぷら油が燃え広がったのか知らないけれど、なんて事してくれんのよ。なんで死んでまで、あなたたちは娘に恨まれるのよ。あなたたちのせいで、今あたしはひどく迷惑してる。
絶対、一生、死んで悲しい、なんて思ってやらないんだから。
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