渋谷には毎日入り浸ってもはや自分の庭ぐらいの感覚なのに、同じ東京の繁華街でも歌舞伎町に来ると田舎から出て来たおのぼりさんのようにずんと背筋に嫌な緊張が走る。
渋谷も歌舞伎町も風俗嬢率は高いだろうけれど、渋谷にいるのがあたしたちみたいな若い風俗ビギナーなのに対し、歌舞伎町にいるのは風俗の世界に骨を埋めると決めて生きている、いわばベテランたち。斜め前を歩く二十代後半くらいのシャネルのバッグを携えた女の人も、たぶんその部類だ。ベテランの街で、ビギナーはライオンに目をつけられたインパラのように慄いてしまう。
私用が出来たので今夜は仕事休むと言うと、西さんは露骨に顔を歪めた。「今夜も昨日に引き続いて、忙しくなりそうなんだよ。客取りこぼしたら損になる。用事終わったら来れない?」――困り顔の西さんを断り切れず、あたしは八時から歌舞伎町で律希に会い、それが終わった十一時から出勤することになった。既に予約が入ったと、山手線を下りたところで西さんから電話が入った。今夜は遅れられない。
「こんばんはー。お姉さん、可愛いねー」
駅を出た途端金髪をツンツン立てた三十歳くらいの男に声をかけられた。無視してずんずん前だけを見て歩き続けるのに、男はしつこく追いかけてくる。
「今何のお仕事してるの? キャバクラ? ヘルス?」
ナンパかと思ったらキャッチか。それにしてもセクハラで訴えられるレベルなくらい、どストレートな勧誘の仕方だ。あたしが夜の世界の住人だと勝手に決めつけられている。事実その通りなので、別に腹も立たないけど。
「お姉さんなら若く見えるし可愛いから、今より確実に稼げる店紹介できるよー。ちょっと携帯の番号だけ、教えてくれない?」
「六万五千円」
進行方向を睨んだまま言うと男がえ、と間の抜けた声を出した。
「あたしが夕べもらった給料の額。あたしまだ十六で、違法風俗で働いてるの。それよりいい条件の店なんてあんの?」
男があたしを追うのをやめた。ウザいのがいなくなって、すっと喉を通る空気の質が良くなる。
キャッチは渋谷にもたくさんいるからこうやって声をかけられることは慣れている。でも渋谷のキャッチはそこで働く女の子と同様、まだ若い夜の世界ビギナーって感じなのに対し、歌舞伎町のキャッチはベテランの貫禄があるから、いつもよりも警戒心が尖る。メイクで彩っても隠し切れない童顔が悪いのか、ミニスカートからにょっきり伸びた脚が悪いのか、律希と待ち合わせている歌舞伎町の奥のカフェに着くまでにその後も二人に声をかけられた。
律希が指定した喫茶店はコーヒーや紅茶や飲み物がひと通り、あとはケーキやサンドイッチなどの軽食が用意された、カフェというこじゃれた呼び名より喫茶店、という言葉のほうがしっくりくる店だった。特に特徴のないこざっぱりとしたインテリア、落ち着いた照明の店内。アイスティーを飲んで待つこと五分、律希が現れた。カーキ色のロゴ入りTシャツにジーパンを穿いている。なかなかいいセンスだ。ホストみたいにぎらぎら着飾ってないし、かといって田舎者っぽくもっさりしてもいない。律希はちゃんと、男に相応しいおしゃれの何たるかを心得ている。
「もう、なんで歌舞伎町に呼び出すのよ」
開口一番、そう言っていた。律希がごめん、と謝る。
「渋谷なら勝手知ったる街だから、いちいち変なのに声かけられてもビビらないけど、歌舞伎町は慣れてないからなんか怖い。スカウトの数も桁違いだし」
「僕の職場、この近くだからさ。この後も仕事入ってるから、ここが丁度良くて」
「職場って、いわゆる二丁目ってやつ?」
「そう」
「二丁目って、面白いの? そんなにわんさか、オカマが歩いてるの?」
「わんさかはいないけど、渋谷とか、普通の場所よりはそういう人が多いかな。ノンケの人も遊びに来るお店、たくさんあるし」
ふーん、と相槌を打ちつつアイスティーを啜った。律希は店員にオレンジジュースをオーダーしている。男のくせに甘ったるいものが好きな奴だ。
気付けば店内は、出勤前のホストやキャバクラ嬢、風俗嬢らしき人たちで溢れかえっていた。場所が場所だからしょうがないけれど、ちょっとうんざりする。律希ももっと、ましな店を指定してくれればいいのに。
「律希、他にいい店知らないの? ここ、夜の住人で溢れかえってるじゃん。未成年のうちらには、場違いな感じ」
「この後会うお客さんが、ここを指定してきたんだよ。千咲に僕の仕事、見てほしくて」
「仕事って、デートボーイのほうじゃなくて、副業でカウンセリングがどうのこうのってやつ?」
こくり、と律希がオレンジジュースをストローで吸い上げながら頷く。そしてストローから湿った唇を離す。
「僕は、その人の戻りたい過去に十一分間だけ戻せる力を持ってる」
律希の丸い目があたしをまっすぐ見据えていて、空気が一瞬固まるのを感じた。
「何それ? 特殊能力?」
「まぁ、そういうことになるのかな」
「律希ってばウケるー。そういう冗談も言う人だったんだ」
「冗談じゃないよ」
しんと動かない空気の中で、律希の声だけがテーブルを越えて届く。
この場合、どういう反応をしたらいいのか。おそらく律希は、自分を超能力者だと信じているイタい思春期の少年だ。変に否定したらキレられそうだし、かといって肯定するのも妄想を助長してしまう。一向に言葉が出てこないあたしを見て、律希が笑った。
「千咲、僕が自分は超能力者だって信じてるイタい奴だって思ってるでしょ?」
「え」
「目でわかるよ。どんなことを考えてるか」
くくく、と律希が丸い目を三角の形にする。そんな顔をするとやっぱり十六歳で、デートボーイをしているなんて嘘で、そのへんにいる健全な男子高校生だと思いたくなる。でも健全な男子高校生じゃないから、あたしも健全な女子高生じゃないから、今二人はここでこうしているんだ。
「どういうことなの、それって」
とりあえず、律希の話を信じるフリをしてみることにした。否定しても前に進まない。
「戻りたい過去に戻れる十一分? 要は、タイムスリップみたいなもの?」
「タイムスリップというか、意識はそのままで、身体はその時のものに戻る。たとえば千咲が戻りたい過去が五歳の時だったら、意識は今のまま、身体は五歳なんだ」
「じゃあさ、もしその十一分の中で、何か元の十一分と違うことをしちゃったら。未来が、というか現在が、変わっちゃう可能性もあるってこと?」
「そういうことは、頻繁にある。僕と会う未来自体がなくなって、僕の前から消えちゃう人もいるしね」
律希は涼しげな顔で言うけれど、なんだかまるでほとんどSF映画だ。それにしても、嘘にしては話を作り込み過ぎている。妄想にとりつかれた人間は、妄想に骨を接ぎ肉を足していくものなのか。
「話していてもわからないから、そこにいて。今、お客さんが来たから」
律希が尻を上げる。喫茶店の入り口に、茶色い髪をくるくるプードルみたいに巻いた二十代半ばくらいの女の人が現れた。どう見てもキャバ嬢だ。
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