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ブログ限定小説「終わりのための11分」第六話

執筆者の写真: 櫻井千姫櫻井千姫

 二人は両手を上げて挨拶した後、隣のテーブルについた。しばらく、当たり障りのない会話が続く。律希くん、仕事のほうは上手くいってるの? 家に帰らないで、最近はどこで暮らしてるの? まるで、家出少年の弟と彼を心配する姉みたいな話。彼女の分のアイスコーヒーが運ばれてきたところで、女の人が財布を取り出した。ヴィトンのロゴが入った、キャバ嬢にしか見えないこの人に相応しい財布。

 女の人は律希に諭吉を二枚差し出した。その金額の大きさに目玉が飛び出しそうになっていると、律希が女の人に気付かれないように一瞬だけこっちを見て、にやりと唇の端を持ち上げウインクをした。すぐに女の人に顔を戻し、何かを言った。女の人が目を瞑った。律希も目を瞑る。

 ぐぐ、と律希の目の横に年齢には相応しくない深い皺が寄った。重い痛みに耐えているような、何かに必死で集中しているような。ジーンズの上の手を、ぎゅっと握り締める。今にも爪が手のひらに食い込んで血が溢れ出しそうに、深く強く。喫茶店が流すクラシックのBGMとあちこちのテーブルから聞こえる会話が重なり合い、夕暮れの海のさざめきみたいに聞こえる。律希はじっと苦痛に耐える表情をしている。女の人は最初は穏やかに目を瞑っていたけれど、やがてそのつけ睫毛に彩られた目の端から一滴涙が零れ落ちた。目の前でいったい何が起きているのかわからなかったけれど、とにかく今律希の邪魔をしちゃいけないことだけは確かだった。

 永遠にも等しい長い沈黙の後、女の人が目を開けた。頬を流れる大粒の涙。律希も目を開けた。苦しそうに肩で息をしている。信じていなかったけれど、どうせ自称超能力者のイタい思春期少年だと馬鹿にしていたけれど、今確信した。

 律希は今あたしの目の前で、この女の人に何かをした。

「本当にありがとう。お陰でまた、お父さんに会えたわ」

 女の人はバッグからハンカチを取り出し、目元を拭いながらそんなことを言った。まだ苦しそうにしている律希が弱弱しく微笑む。

「お役に立ててよかったです」

「本当にありがとう。まるで奇跡みたいな時間だった。もう出勤だから、行くわね。これは、ここの飲み物代」

 千円札を一枚テーブルに置いて女の人は立ち上がり、喫茶店を去っていく。入口のところで振り返り、律希に手を振って微笑んだ。微笑み返す律希の笑顔は、今にも消えてなくなりそうに頼りない。

「どうだった?」

 オレンジジュースを持って元のテーブルに戻った律希が言う。よく見れば額も首筋も汗で濡れている。店内はしっかり冷房が効いているのに。思い切り走ったわけでもないのに。

「どう、っていうか、あんた大丈夫なの?」

「何が?」

「そんなに汗かいて。顔もすごく疲れてるし、青ざめてる」

 言いながらハンカチを渡すと、律希は素直に受け取り、汗を拭った。

「セッションをすると、いつもすごく体力と気力を消耗するんだ。十キロメートルのマラソンコースを走った後みたいに」

「セッションって?」

「僕が、誰かをその人の戻りたい十一分に戻す能力を発揮すること。僕はそう呼んでる」

 そう言って、ありがとう、とハンカチを返す。渇いていたハンカチは今はほのかに湿っていて、十代の男の子の健康的な汗の香りがした。

「見て、わかってくれた? 僕が嘘をついてるわけじゃないってこと」

「正直まだ半信半疑だけど。詐欺じゃないってことはわかった」

「詐欺なんかしないよ」

 律希の笑顔は、まだ弱弱しい。セッションで消耗した気力と体力というのは、いったいどのくらいで回復するのか。

「いつから、その能力に気付いたの? 念動力や透視能力と違って、相手がいないと出来ないことでしょう?」

「いい質問だね。最初にセッションをやったのは、中学の時だった。友だちが、別の友だちと喧嘩して、あの時に戻りたいって悩みを僕に打ち明けてきて。その時、戻れたらいいね、って言ったんだ。彼も戻りたい、って言った。そしてふと目を瞑ると、世界がビデオテープを巻き戻すように超高速で流れ始めたんだ。それも僕を中心とした世界じゃなくて、彼から見た世界。何が起こっているのかわからなかったけれど、とにかく目を開けちゃいけないんだってことは本能的にわかった」

 ごくり、と唾を飲んだ。小学生の時、友だちの好きな人を、他の子には言わないでね、とあたしだけにこっそり教えてもらった時のような緊張感が走る。もうあたしは、律希も、彼に秘められた不思議な能力も、一ミリも疑っていなかった。

「巻き戻しが終わると、見えたんだ。その友だちと、別の友だちが一緒にいるところが。僕もいるんだけど、身体は宙に浮かんでいて、二人からその姿は見えていないみたいだった。幽霊のようにふわふわ浮かんで二人を見ながら、一部始終を見守った。本当は喧嘩したことになっているのに、二人は喧嘩しなかった。僕に相談してきたほうが、このままだと喧嘩になる、って未来を知ってたから、違うことを言ったんだ」

「その後は、どうなったの?」

 恐る恐る聞くと、律希はに、と歯を見せて笑った。

「二人が仲良く校門の方へ去って行って、今度は逆にビデオを早回しするように、世界が超高速で流れていったんだ。気が付いたら僕は一人で、学校の階段に座っていた。僕に相談した友だちは目の前にいなかった。過去を変えたことで今が変わったから、僕に相談する必要もなくなったんだ」

「その後、二人は?」

「喧嘩することもなく、卒業までずっと仲が良かったよ。一度だけ僕に相談してきた方が、こっそりお礼を言ってきた。あの時はありがとう、って。それで気付いたんだ、あれは夢でも幻覚でもなくて、僕がやったことなんだって」

 そう言って笑顔でオレンジジュースを啜る律希に、どんな顔をしたらいいのかわからなかった。

 たとえばスプーンをぐにゃぐにゃ曲げられるとか、相手の考えていることがわかるとか、時間をすっ飛ばせるとか、そういう映画や小説やマンガによく出てくる能力だったら、もっとすんなりと腑に落ちたかもしれない。でも律希の能力は、あたしの想像を遥かに超えたヤバいものだった。

「律希には、セッションする相手の過去が見えるの?」

「セッション中だけね」

「お客さんは、どうやって探してるわけ?」

「僕を必要としてる人が、なんとなくわかるんだ。これも、たぶん僕の能力のひとつなんだと思う。僕を必要としてる人に、自分から声をかける」

「それって――」

 目の前のあたしを見つめる丸い目が急に不気味なものに感じた。裸にされて腹を裂かれて内臓のすべてを引きずり出され、じろじろ見られているような感覚。俯いたあたしの言いたいことを先回りしたように律希が言う。

「大丈夫だよ。相手の過去は、セッション中にしか見えないから」

「でも、クラブで声をかけてきたのは律希を必要としてる人、にあたしが見えたからってことでしょ?」

「そうだよ、って言ったら気分悪い?」

 首を横に振った。律希は二万円を得るためにあたしに声をかけたんじゃない。あの体力と気力の消耗の激しさからして、律希のセッションは二万円じゃ安いくらいなのだ。律希はただ、あたしを助けようとしてくれている。

 ちゃんとわかっているからこそ、あたしはきつい態度を取ってしまう。

「過去を変えるって、リスクもあるでしょ? その時から見た未来が、つまりは今この現在が、変わってしまうリスク」

「もちろん、そうだよ。セッションを受ける人にはそのこともちゃんと話すし、了承済み」

「そんなリスクを抱えてでも、律希はあたしの過去を変える必要があると思う?」

 我知らず声が鋭くなる。律希はうん、とも、ううん、とも言わなかった。

「過去に戻ったからって、必ずしも過去が変わるとは限らない。その時に戻っても、まったく同じ行動を取る人もいるから」

「律希には、あたしがそんなに寂しく生きてるように見えるの?」

 苦い過去から、必死で逃げてきた。

 生まれた街を飛び出して、知らない男の車に乗った、あの日から。

 現実と闘おうにも、あたしには強い心という武器がなかった。逃げるか、自殺するか。その二択しか、許されていなかった。

「夜の世界で生きている人たちは、みんな寂しいよ」

 肯定も否定もしない、曖昧な言葉。苛立ちがふっと湧いてくる。

「寂しいから、身体を売る。お金を得て、自分を飾る。基本的には、みんなさほど変わらないんだ。その背中に、どういうものを背負っているかが、ちょっとずつ違うだけで」

「あたし、仕事行かなきゃいけないから帰る」

 西さんとの約束は十一時から。時計の針はまだ九時を回ったばかりだけど、立ち上がった。

 嘘をついたことに気付いているのに知らないふりだといった顔で、律希が言った。

「もしセッション受けるなら、連絡して。今すぐに決めなくてもいいよ。大切なことだから、よく考えたほうがいい」

「ありがとう」

 さっきの女の人と同じように、あたしも財布を取り出して飲み物代の千円札をテーブルに置いた。

 冷房の効いた店内から一歩外に出ると、都会の夏のむんとこもるような熱気が肌にまとわりつく。歌舞伎町はホストらしき人や風俗嬢らしき人やスカウトらしき人でごったがえしていて、人々の熱気が確実に気温を二度ぐらい上昇させている。視界を上げると、東京の夜空はとっくに夜が暮れているはずなのに、明るすぎる街の光のせいで灰色に見えた。

 山手線のホームを目指しながら、あたしは過去のどの時点の十一分に戻りたいのか、考えてみる。あたしが戻るとしたら、間違いなく祐平に関することだ。なんせあたしは、祐平に失恋して家出したんだから。

 家が隣同士で幼馴染の祐平は、お互い一人っ子ということもあり、互いの親が毎日のように遊ばせて、自然ときょうだいみたいに仲良くなった。祐平を好きだ、と感じたのがいつのことかはよく覚えていない。幼稚園の時だったかもしれないし、その前かもしれないし、その後かもしれない。ただ気が付けば、あたしの将来の夢は「祐平のお嫁さん」だった。他の子どもたちのように歌手とか、スチュワーデスとか、お花屋さんとかお菓子屋さんとか、そういう具体的な職業じゃなく、あたしは「祐平のお嫁さん」としての役割を将来の夢として抱いた。もちろん幼心にもそんな夢は恥ずかしくて、卒業文集の将来の夢にはいつも「保育士」と書いていたけれど。ちなみに、子どもはまったく好きじゃない。気を遣わないし、常識が通じないし、すぐ泣いて煩いから。

 あんまり仲が良くて、小学校の卒業まで一緒に下校するくらいだったから、祐平とあたしは両思いだと勘違いしていた。でも祐平は中三の時、よりによって、あたしの親友の七緒と付き合い始めた。祐平と七緒が一緒にいる日々は世界の終わりが来たみたいに苦しかった。休み時間、廊下でおしゃべりしている祐平と七緒。小学校の時までいつも一緒だった帰り道を共にする祐平と七緒。日曜日にたまたま家族で出かけたショッピングセンターで出くわしてしまった、デート中の祐平と七緒。

 あんな事態を避けるために、二人が同じクラスになって出会う中学三年生以前に時を戻したらいいかもしれない。祐平がまだ七緒と出会っていない時、あたしが祐平に思いを伝えていたら、未来は、つまり今は、変わっていたかもしれない。あたしがどうでもいい男に処女を捧げる必要もなく、その後何人もの男と狂ったように寝る必要もなく、ひいては家出する必要もなかった。

 祐平に思いを伝えるならいつだろう、と山手線のつり革を握りながら思いを巡らせる。隣の人のヘッドフォンの音漏れを煩わしく感じながら、あたしは遠い過去に思いを馳せる。あたしの戻りたい十一分。もしかしたら今が変わるような、決定的な十一分。

 中一の夏休み、クラスのみんなで縁日に出かけた。射的にヨーヨー掬い、たこ焼きにりんご飴。祐平にいつもと違うあたしを見てほしくて、お母さんに浴衣を着せてもらい、髪の毛をアップにした。当時はまだ慣れてなかったメイクもした。その夜、祐平とあたしたちははしゃぎにはしゃいだ後、最後はそれぞれの家に帰るために、自ずと二人きりになった。二人肩を並べて歩いた、夜の道。浴衣姿のあたしと、いつもと変わらずTシャツとハーフパンツ姿の祐平。あたしの下駄が立てる、からんころんというノスタルジックな音。あの、世界があたしのために用意してくれた、完全な二人きりの時間に戻れたら、あたしは祐平に告白する。その結果付き合えたら、あたしと祐平はカップルになって、七緒と祐平が付き合うなんて最悪の事態も当然なくて、あたしは処女を祐平に捧げ、今でもあの小さな町で健全な女子高生として生活しているはずだ。

 叶うなら絶対、そのほうがいい。

 つり革を握る手につい、力がこもる。でもその後すぐに、頭の隅で冷静な自分が険しい口調で発言する。

 そうそう、上手くいきっこないよ。告白してフラれたとしたら、結局、今と変わらないんじゃない? 祐平は七緒と付き合い始めて、あたしは失恋。祐平のお嫁さん、という幼い時からの唯一の夢を失って、世界のすべてだったはずの祐平を失って、あたしは一人寂しく様様な男に抱かれて、得た金で心の隙間を埋めるように買い物をする。戻ったところで、そうに決まってる。

 そうだよね、と頭の片隅に向かって喉の奥で呟いた。アナウンスが渋谷駅が近づいていることを告げた。



 
 
 

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