「最近、変な人に尾けられてないか?」
西さんと一緒に戻ってきた東さんが言う。言葉の意味がわからず、あたしたちは揃って首を横に振る。
「それ、ストーカーって意味ですか? あたしたち、東さんがいつもきっちりホディガードしてくれるから、そんな目には遭ったことないですよ」
「しつこいナンパとかはいるけどねー。仕事帰りとか、声かけてくる奴。ああいう人たち絶対、私たちが風俗嬢だってわかってるよ」
「風俗嬢だから、ちょっとお願いすればさせてくれるだろうって思ってるんだろうね。わたし、そういう人たち、ほんと嫌い」
「ストーカーやナンパじゃない。相手は警察だ」
警察、という響きにわたしたちは一斉に顔を固くする。東さんが淡々と続ける。
「うちの店は、警察にマークされている。万が一摘発なんて事になったら、確実にヤバい。店はなくなるし、俺と西さんは刑務所だろうし、薫たちも鑑別所だ」
「何それ!? 今すぐ店閉めたほうが良くない!?」
薫が声を荒げる。警察に捕まって鑑別所行きなんて、絶対考えたくないシナリオだ。そんな状態で呑気に店を続けていいものなのか。
「俺も西さんも生活がかかってるし、みんなだってお金は欲しいだろう? そう簡単に、店を閉めるなんて事はできないよ」
「でももし、万が一、警察に捕まったら……」
聖良が声を震わす。違法ホテトルなんかで働いてはいるけれど、誰よりも親を思っている聖良。親が心配するからって、髪を染めない聖良。その気持ちは同じらしく、薫もひよりも震えあがっている。
もちろん、あたしもだ。捕まって家に連れ戻されたら、またあの街で祐平の隣で暮らさなきゃいけない。そんなこと絶対、嫌だ。
「とにかく、行き帰りは気をつけろ。怪しい車があったら、なるべく早くそこから遠ざかること。店がなくなったら、困るのはみんなだろう?」
「そう、だけど……」
正直言って、警察にマークされている店なんかで働きたくない。
いつ逮捕――いや、未成年だから補導か――されるかなんて不安を抱えながら、仕事なんてしたくない。
でも十八歳未満のあたしたちは、どこの風俗店でも働けるってわけじゃなくて、似たような仕事を探すとしてもやっぱりそこも警察にマークされている可能性もあるわけで。だからって、今さらまっとうな仕事をするなんて気にもなれないし。
結局、警察に怯えつつも「キャッツ」にしがみつくしかない。
そこで西さんの電話が鳴り、聖良が仕事に行った。それから三十分後、あたしにも客がついた。
夜中の四時で、「キャッツ」は店じまい。今日は四人、タクシーに乗って薫の家にお泊りする事になった。夏の午前四時台は空がぼんやりと明るく、タクシーに乗っている間に街は徐々に目覚めていく。タクシーを降りた後、あたしたちはそれぞれ、前後左右を確認した。
「警察っぽい人、いる?」
「いない。ていうか、こういうのって決まって、私服警官なんでしょ? そんなの、一般人と見分けつかないし」
「しばらく移動は電車より、タクシーの方がいいかもね」
ひよりの提案に、みんなが頷いた。働いているあたしたちの家は、絶対に警察に知られてはならない。
今日も父親がいない薫の家で、四人、代わりばんこにお風呂に入った。仕事で何度もシャワーを浴びているけれど、一日の最後はなんだかんだ、のんびりと湯舟に浸かりたい。薫の家のお風呂はのびのび脚を伸ばせる充分な広さがあって、ジェットバスを売りにしているラブホのお風呂にもひけを取らない。
最後にあたしがお風呂に入り、薫から借りたパジャマに身を包み、冷蔵庫から麦茶を拝借していると、朝のニュースをやっていた。夜通し働き、昼に起きるあたしたちからすれば、夜のニュース。二十代半ばくらいのきれいな女性アナウンサーが、神妙な口調でニュースを告げる。
『――東京都××市で昨日夜七時頃、火災があり、一家が全焼しました。焼け跡からこの家に住んでいた夫婦と見られる遺体が発見されました』
欠伸をしている薫の頭越しに見たブラウン管に、あたしは思わず麦茶が入ったコップを滑り落としてしまった。
「……千咲?」
ひよりが音にびっくりして振り返る。あたしの目はまだ、ブラウン管に釘付けだ。
だって、その場所は、その家は、死んだ人たちは。
あたしが四ヵ月前に捨てた家と、両親だったから。
『消防署は今、火災の原因を捜査しております。なお、この家の長女は四か月前から行方不明になっており、警察ではこの長女がなんらかの事情を知っている可能性もあると見て、長女の行方を追っています』――
腰が、抜けた。あたしは麦茶が広がったフローリングの上に、だらんと崩れ落ちてしまった。
原因は捜査中? それって、放火の可能性もあるってこと? 長女が、なんらかの事情を知っている? 行方を追っている――?
衝撃的過ぎる情報がいっぺんに入ってきて、混乱した頭をあたしは掻きむしった。
「千咲! 千咲どうしたの、しっかりして!!」
すぐに薫たちがキッチンの床で茫然としているあたしに駆け寄ってくる。どうしたの、何があったの、と聞かれても、すぐに言葉が出てこなかった。とりあえず薫は床に零れた麦茶を雑巾で拭って、新しい麦茶を注いで渡してくれた。
「これ飲んで、ちょっと落ち着いて」
ミネラルがたっぷり入った冷たい液体が喉を通り抜けていくと、本当に少しだけ暴れ回っている心臓が楽になった気がした。あたしはふう、と深呼吸をした。
「千咲、何があったのか、話せる?」
あたしを心から心配する顔のひよりに向かって、頷く。
「今のニュース……死んだの、あたしの親」
「え」
三人の声がハモった。
しばらく、誰も、何も、言わなかった。みんな、想定外の現実に打ちのめされていた。当事者であるあたしですら、自分の身に起こったことをまだ受け入れられていなかった。
親が、死んだ。ずっとウザかった存在が、永遠にこの世から消えてなくなった。
それはとても喜ばしいことのはずなのに、嬉しさよりも衝撃の方が強かった。
何より問題なのは、親の死にあたしが関わっているんじゃないか。そう、疑われている事だった。
「どうしよう! どうしようあたし、親を焼き殺したって警察に疑われてる! あたし、追われてる! 売春なんて些細な罪だからどうでもいいけれど、自分の両親を殺したなんて事にされたら死刑だよ! どうしよう!!」
「千咲、落ち着いて」
そう言う聖良の声が上ずっている。みんな、このありえない状況についていくのが精いっぱいなのだ。あたしも含め、誰ひとりとして冷静じゃないんだ。冷静でいられるわけがないんだ。
「千咲はずっと私たちと一緒にいたし、調べれば事件に関わりないって、警察も分かってくれる。そんなに心配する事、ないよ」
「でも! でもあたし、『キャッツ』で働いてるんだよ!? ただでさえうちの店マークされてるのに! 十六で違法風俗で働いてる女の子の話なんて、誰も信用してくれない」
「だったら、しばらくこの家から出なければいい。出勤もしないで。大丈夫、西さんと東さんに、あたしらからちゃんと話しておくから」
薫がそっと、あたしの背中に手を回した。
昼間はあれだけ泣いたのに、今は泣けない。
泣けるっていうのは、泣けるほどの出来事を受け入れていないと出来ないんだ。
今みたいにただ起こった事に打ちのめされていたら、涙すら出てこない。
あるのはただ、真っ黒な恐怖。いつ自分が親殺しの犯人の少女として、警察に捕らわれてしまうかわからない恐怖。
「あたしの父親、海外出張中で次に家帰ってくるの九月だから。それまでならいくら家にいたって、あたしは構わない。まぁ、もともとこの家、あたしらのたまり場みたいなもんだったしね。千咲はいくらでも、ここに籠城していていいよ。食べ物とかは、あたしたちが買っとく」
「ありがとう……薫。聖良。ひより」
みんな、代わる代わるあたしの背中を撫でてくれる。
あたしは泣けないのに、ひよりが泣き出した。
「千咲……いきなり、こんな事になっちゃうなんて……まさか親が、だなんて。千咲は、親を亡くすには早過ぎるよ……」
ひよりの涙を、あたしはじっと観察するように見ていた。
違う。あたしは、親が死んだ事なんて、なんとも思っちゃいけない。
いつだって、可愛いのは自分だけ。
親が死んで驚きこそあれど悲しいなんて気持ちは微塵もなくて、ただ今はいつ、警察の手があたしに伸びてくるか。その事が恐怖の塊となってあたしを飲み込もうとしてるんだ。
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