律希は頭を抱えた後、机の上に突っ伏してしまった。何度か大きく身体を痙攣させた後、動かなくなる。あたしたちの異変を察した店長さんが、慌ててやってくる。
「彼氏、どこか痛いのかい?」
「いや、ちょっと、頭が痛いみたいで……」
「救急車ならすぐ呼べるけど」
と、店長さんが今どきなかなか見ないレジに置いてあるピンクの電話を指さす。
あたしは慌てて首を振る。救急車なんかに乗ったら、律希が家に連れ戻されてしまう可能性もある。通報したあたしだって、きっと大人たちからいろいろ聞かれる。追われる身として、警察と救急には絶対に関わりたくない。
「いつもの発作みたいなものなんで、たぶん、大丈夫です」
「発作って……何? てんかんかい?」
「あたしもよくわからないんですけど。とりあえずあたしの家、連れて行きます」
あたしの家、じゃなくて正確には薫の家、なんだけど。
律希はかろうじて意識ははっきりしているらしく、肩を貸して歩き出すとなんとか足を動かした。目眩がするようで、呼吸も苦しそうだ。薄い胸がはぁはぁと必死で息を送り込んでいる。
エレベーターに乗せ、薫の部屋までなんとか二人もつれあうようにしてたどり着いて、薫のベッドに律希の身体を横たえた。冷蔵庫から麦茶を持ってきて、飲ませる。水分が苦しみを軽くするのか、律希は二杯飲んだ後、荒かった呼吸がだんだんと戻ってきた。三杯飲むと、弱弱しくながらも会話ができるようになった。
「ありがとう、千咲」
「まだやってるの。副業」
律希は叱られた子どものように頷く。あたしは感情が爆発する。
「なんで、いつか死ぬってわかってて、そんな事繰り返すの!? あたしは、律希に死んでほしくない。お金が欲しいなら、デートボーイの仕事だけやってればいいじゃない!!」
「僕は、死にたいんだ」
律希は、笑っていた。今にも消えてなくなりそうな、儚い微笑。
「嫌なんだよ。毎日、好きでもない男に抱かれて、ヘラヘラ笑って、気持ち良くなってる自分が。客の機嫌取って、お金もらってるこの生き方が」
「だったら、普通の仕事すればいい! コンビニの店員でも、牛丼屋でも、いくらでもあるじゃない!」
「そんな仕事、給料貰えてもデートボーイに比べれば雀の涙みたいなものじゃないか。する気になれない。千咲は今さら、普通に働く気になれる?」
言葉を失ってしまう。たしかにあたしは、普通の仕事なんてとても出来ないし、したくない。何をやってもホテトル嬢よりきつくて、ホテトル嬢より給料がもらえないのだ。とても釣り合わない、と思ってしまう。いくらゴキブリみたいなキモい男に抱かれるしんどい仕事だって、普通の仕事よりはマシだ、という妙な思考回路が働く。これは、援助交際がお金をもらう初めての体験になった女の子なら、誰でも共通して持っている思いだろう。
「だからって。だからって、死んでもいいの?」
いつのまにか声に涙が混ざっていた。胸が痛くて、張り裂けそうで、律希と向き合っているのが苦しかった。あたしみたいな生き方をしている人間に、律希の生き方は否定できない。否定しちゃいけない。
それでもあたしは、律希を失いたくない。
「死んだら、本当にすべて終わりなんだよ。何もかもゼロになるの。もしかしたら、これからの人生、何かいい事があるかもしれない。その可能性だって、失われてしまう。だいいち、死んだらあたしとも会えなくなる。律希は本当に、それでいいの?」
「僕の人生にこれからいい事なんてまず起こらないだろうけれど、千咲に会えなくなるのはちょっと、悲しいかな」
律希が弱弱しくあたしに手を差し伸べてきて、肩を抱く。あたしはそっと律希に身体を預け、同じベッドの中に潜り込む。汗ばんだ律希の身体からは、なぜか夏の草いきれみたいな香りがした。
「ちょっと、なの? あたしはすごく悲しい」
「ごめんね。千咲に、こんな思いをさせて」
「お別れが来るなら、律希に出会わなきゃよかった」
「ごめん。全部、僕のせいだ」
「謝ったって今さら、どうにもならないでしょ」
律希と出会わなきゃよかったなんて、そんなこと本心では思っちゃいない。大好きな律希。大切な律希。あたしの人生に、今や欠かせないものとなっている律希。
もう、律希はただのセフレなんかじゃない。男と女の垣根を越えて、強い友情が、絆が、繋がれている。あたしはどうしても、その絆を失いたくなかった。律希が死ぬなんて、そんな事あっちゃいけなかった。
「最近、セッションをしてない日でもこんなふうになるんだ。デートボーイの仕事中も、意識を失いそうになったり」
「確実にヤバいじゃん。セッション、今すぐやめた方がいい」
「やめるならその前に、千咲のセッションをしたいな」
律希があたしの頭にそっと華奢な手を這わせながら言った。
「千咲の戻りたい過去は、祐平がらみの事だろう? もし過去に戻れたら、今が変わったら、千咲は家出する必要もなければ、ホテトル嬢になる事もなかった」
「そしたら、律希に出会えないじゃない」
「でも千咲は、祐平と付き合いたくないの?」
祐平の顔をずいぶん久しぶりに思い出した。
隣の家が焼けて、親しい頃からもう一人の親のように仲良くしていた人たちがいなくなって、幼馴染は行方不明で。
祐平は今のこの状況を、どう思っているんだろう。少しはあたしの事を、心配してくれているだろうか。
もし過去に戻って祐平に告白して付き合い始めたとしたら、それ以上素敵な事はない。ひょっとしたらあたしの親だって、死ななかったかもしれない。今は親のことはウザくて嫌いでそれ以上の感情なんて持てないけれど、心から愛する人と結ばれたら、生まれたことに感謝できる日が、育ててもらったことに感謝できる日が、来るかもしれない。
きっと祐平と付き合っていれば、あたしは今もあの街で笑ってキラキラと女子高生らしい青春を送っていた。
「付き合いたいよ。祐平と」
素直に自分の思いを口にする。律希が華奢な身体で、弱弱しい力で、あたしをぎゅっと抱きしめてくる。
「そうなったら、いよいよ僕と会うことはなくなるね」
「そうだね」
「でもその方が、千咲にとってもきっといいんだ」
「けど、律希の身体は大丈夫? あたしのセッションして本当に律希が死んじゃったとしたら、あたし、嫌だよ」
それも、素直な思いだった。
カチカチ、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。薫の大きなベッドの中で、あたしたちはだいぶ長い間、恋人同士のように抱き合っていた。
「たぶん、あと一回くらいなら平気だと思う」
「本当に?」
「本当に」
「でも、フラれたらきっと、何も変わらないよ。フラれた事でやけっぱちになって、むしろエンコーを始めるのが早くなるかもしれない」
「やってみなきゃ、わからないさ」
律希は優しく言って、ぽんぽんとあたしの頭を撫でた。
律希が帰っていった後、あたしは一人、リビングでぼんやりとインスタントコーヒーを飲んでいた。薄いコーヒーが、安っぽいカフェインが、脳を刺激して様々な事を思い出させてくる。
うんと小さい時、祐平と一緒にお風呂に入ったこと。
祐平と同じ布団で、きょうだいみたいに寄り添って眠ったこと。
風邪を引いた祐平を、お姉さん気取りで一晩中看病していたこと。
小学校の頃、祐平との仲を冷やかされたこと。
中学生になり、七緒が祐平を好きだと言ったこと。
祐平と七緒が付き合い始めたこと。
当たり前のように同じ家に入っていく、祐平と七緒の背中。
もし、七緒の代わりにあたしが祐平の隣にいられたら。
あたしが祐平の彼女になれたら。
初体験をちゃんと、祐平に捧げられていたら。
それはこの世の最大の幸福で、あたしは神様に、運命に、とにかく感謝できるすべてのものに感謝しながら、まぁるい心で生きていられた。
少なくとも今みたいに、神経をびりびり尖らせながら、仕事の度にキモいオヤジたち相手に吐きそうになりながら、お金がくれる悦びだけをよすがに生きなくて済んだ。
インスタントコーヒーをテーブルに置いた。まだ、白い湯気が立ち上っている。
決めた。あたしは律希のセッションを受ける。
律希の最後のクライアントになる。
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