終電の時間になってもまったく電話が鳴らないので、「キャッツ」は夜の営業をやめた。今日はクスリを盛られた薫以外、全員お茶だ。万札を受ける時、まだ顔色の悪い薫はあまり嬉しそうな顔をしなかった。自分がドラッグを盛られたという事実が、衝撃的過ぎて何も考えられないのだろう。
「薫、大丈夫?」
渋谷駅に向かって四人で歩きながら、聖良が言う。あたしたちの足元を、黒いゴキブリが一匹、のろのろと横切っていく。
「いちお、歩ける。だいぶクスリ抜けたみたい。酒と一緒だね」
「ねぇ、さっき、セックスが気持ち良かったって薫、言ってたよね? 本当に、そんなに気持ち良いの……?」
おどおどとひよりが言って、薫ははぁ、とため息をつく。
「すごい気持ちよかったけど、あんな思い二度としたくない。した後、ベッドから起き上がる事すらできないんだもん。携帯鳴ってて、床這って、取りに行って……」
「今日は薫、ゆっくりした方がいいよ」
あたしが言うと、薫はようやく顔を笑いの形にする。
「言われなくてもそうするってば」
すれ違う外国人が、あたしたちに声をかけようかどうか迷っているのがわかった。目を合わせないようにしていると、諦めたように視線を足元に落とした。
十六歳は、強い。いじめられようが、レイプされようが、堕胎しようが、ドラッグを盛られようが。四十六歳の女ならこうはいかない。立っているだけで男が寄ってくるあたしたちは、低い自己肯定感を男によって満たすことができる。さらに、それをお金に変えられる。何も持っていなくても、何も持っていないからこそ、あたしたちは強くて、仲間同士励まし合えば多少の事は乗り越えられる。
ニセモノの鎧だって、それを着ていなければ敵に撃たれて終わりなのだ。
あたしたちは若さという鎧で、あらゆる不条理に立ち向かう。
「ね。あの子、ヤバくない?」
ひよりがさりげなく、あたしのTシャツの裾を引いた。
スクランブル交差点の端っこで、細っこい男の子が倒れている。一見して未成年だと分かる、未成熟な体つき。すれ違う人たちはどうせ酔っ払いか何かだと思って、無関心に通り過ぎて行く。警察や救急車が来る様子もない。
近づいて、あたしは一瞬、足を止めた。そして走り出した。
「律希!!」
唇から自然と名前が飛び出す。
抱きかかえた律希の身体からは、力という力がすべて抜けてしまっていた。名前を呼んでも反応がなく、揺すぶっても死にかけのタコのようにぐにゃぐにゃしている。狂ったようにあたしは何度も律希、律希と繰り返す。通り過ぎる人たちが、こちらを何事かという目で見ている。信号は赤に変わっていた。
「救急車呼んだ方が良くない?」
そろりそろりとあたしに近づき、薫が言った。あたしは首を振る。
「律希はデートボーイだし、下手に大人が介入したら律希が捕まっちゃう! 律希、家、出てるんだよ。クソみたいな親に連絡して、家に連れ戻されでもしたら大変な事になる」
それだけは、絶対に避けなければならない事態だった。
律希が病院に運ばれたところで、どうなる? 保険証を見せたら親に連絡が行き、大好きな愛玩動物を失った律希の父親は飛んでくるはずだ。そして律希が家に連れ戻されたら、また地獄の日々が始まってしまう。
律希はデートボーイとして生き、自分がゲイなんじゃないかという後ろめたさと葛藤しているけれど、トラウマを植え付けた張本人の元に戻す事だけは、絶対に、駄目だ。
「千咲、その子、なんとかできる? 急がないと私たち、終電の時間が……」
「みんなは電車乗ってていいよ! あたしはこの子と、ラブホに泊まる」
「そんな状態で、ラブホまで行ける?」
ひよりが心配を隠さない顔で言う。
「これ、預かってて。明日取りに行く」
お気に入りのセシルマクビーのハンドバッグとは別にもうひとつ、アルバローザのロゴが入った仕事バッグを聖良に渡した。中にはタイマーやコンドーム、ローションやイソジンが詰め込まれている。
「千咲、ほんとに大丈夫だよね? マジ心配なんだけど」
「薫は自分の心配してて。律希ひとりぐらい、軽いもんだよ」
そう言って、あたしは五十キロにも満たないであろう律希の身体をおぶった。
自分で言っては見たものの、律希は意外と、重かった。仮に律希の体重を五十キロだと仮定すると、大きなお米の袋五つ分なのだ。重くて当たり前。せめて、逆だったらよかった。男の子が酔っ払った女の子をおぶって歩く光景は、深夜の渋谷ではまったく珍しいものじゃないから。でも、妙に若い女が妙に若い男をおぶって歩いていると、嫌が応でも人の目を引く。ヴィラジュリアに向かいながら、今、西さんや東さんとすれ違ったりしませんようにと、胸の中で祈っていた。
ラブホはサービスタイムだと安いけれど、宿泊だと相応の料金がする。今日お茶だったあたしにはきつい出費だが、仕方ない。律希をダブルベッドの上に横たえると、律希はそこで初めて弱弱しく目を開けた。
「ち……さき?」
「わかる? 律希、あたしだよ。うちら、道玄坂のヴィラジュリアにいる」
律希が緩慢な動きで首を縦に振った。
「あり、がとう」
「いいからそこで休んでて。今、お水持ってくる」
ホテル備え付けの冷蔵庫からペットボトルのお水を二本出し、身体を起こすことも出来ない律希に半ば強制的に飲ませた。水を飲むと少し楽になったのか、律希は今度ははっきりと、ありがとう、と言った。テノールの声が何物よりも深い安心感をもたらす。
「どうして、こんな事になったのよ」
同じベッドに身体を滑り込ませながら言った。律希の柔らかい髪に触れると、シャンプーの甘い香りが鼻孔を突いた。
「まさか、律希もクスリ盛られたの?」
「も?」
「今日、うちの店で友だちがクスリ盛られたんだ。種類はわからないけれど、とにかく危ないやつ」
そう、と律希は蚊の鳴くような声で言って、薄い笑みを浮かべた。
「何がおかしいのよ」
「いや。そんな、理由だったら、よかったな、って」
「どういう事?」
「僕のは、クスリじゃ、ない」
ただでさえ白い顔は今にも幽霊のように透けてしまいそうなほど頼りなかった。
「これは、力を使った、代償」
「代償?」
「今日は、渋谷で、仕事、だったんだ。デートボーイ、じゃ、なくて。副業の、ほう……二件、立て続け、で。身体、持たなくて……」
「何よそれ!!」
律希が十一分の間で気力も体力も激しく消耗してしまう事はあたしも知っていた。
でもまさか、こんなになるまで、エネルギーが削られるものだったなんて。
「たぶん、僕は、もう、長く、ない」
泣きたくなっているあたしに向かって、律希は囁くように言う。唇にはマリア像のような柔らかな笑みが浮かんでいる。
「たぶん、長くは、生きられない。言った、だろ? いつまでも、続けられ、ないって。きっと、誕生日が、来る、前に。僕は、死ぬ。十七歳には、なれ、ない」
「何よ。何なのよそれ……!!」
両目からぼろぼろと大粒の涙が零れていた。
神を呪った。律希を普通の家庭の普通の子として生まれさせなかった、神を。律希に、特別だけど危険な能力を与えてしまった、神を。律希に、一生消えることのない痛みを与え、それを救うこともしない神を。
いや。神様なんているわけないか。
いたとしてもそいつは酷く冷徹で残酷で、自分が作り上げた世界の中で苦しんでいる人間たちを見てはにやにや笑っている非道な奴だ。
「泣かないで、千咲」
律希がそろりと腕を伸ばし、あたしの涙を拭おうとする。あたしはぶんぶん、首を振る。
「律希が死ぬなんて嫌。絶対に嫌。律希はあたしの親友なのに!! あたしは絶対に、律希を死なせない!!」
「それは、無理、だよ」
律希の微笑みは相変わらず、イエス様を生み出したマリア様みたいだった。
「きっと、決まって、るんだ。ここ、何日か、ひどくて……もう、仕方ないな、って、諦めてる。ごめんね、千咲」
「謝らないでよ! 馬鹿!!」
その後もあたしはアホのように、馬鹿、馬鹿と律希を詰り続けた。律希は何度もごめんね、と言った。
律希は本当に馬鹿だ。
身体を売って生きるのも、自分に与えられた能力を使って生きるのも、別にいい。
でも、それで死んだら、本物の馬鹿じゃないか。
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