第九章 タイムリミット
十五時を回った頃、ソファーの上で目覚める。薫たちは既に仕事に出かけてしまっていて、家の中にはあたし一人しかいない。
お腹はあまり空いていなくて、なぜか猛烈にニコチンが欲しかった。ベランダに出て、マルボロに火を点ける。見上げた空には秋らしい輪郭が曖昧な形の雲が浮かんでいて、季節が進みつつある事を思い知らされる。
春の終わりに、家を出た。夏の初めに、『キャッツ』で働き始めた。そして今は、秋の初め。たしか、去年の今頃ぐらいだ。和之に別れを告げたのは。
なんて慌ただしい一年だったんだろう、と振り返って自嘲してしまう。セックスを経験したあたしは、初めて自分に価値がある事を知った。出会い系サイトを使ってエンコーを始め、その価値がダイレクトにお金に反映されるのだとほくそ笑んだ。祐平に失恋して、自分にすっかり自信がなくなっていたあたしに、自信を取り戻させてくれたもの。それが、身体を売るという行為だった。千人の男と寝れば、祐平の事なんて遠い過去になるんじゃないかと期待していた。
家出はしたけれど、家を出た、という実感は正直あまり、なかった。たしかに親のことはウザいし嫌いしそれ以外の感情なんて一ミリもないけれど、あたしの場合は親がウザいからじゃなくて、いつも七緒の隣にいる祐平から離れたくて、この呪詛のような思いから逃れたくて、家出したんだ。「キャッツ」の仕事は良かった。エンコーしてた頃は五万と事前に約束してたくせに三万しかくれない客もいたし、そういう面倒臭い交渉を西さんがやってくれるのが楽だった。
友だちもできた。薫も聖良もひよりも、いろんなものを背負って身体を売ってるけれど、十六歳という若さと美しさを武器に、前向きに生きている。時々泣きたくなるほどつらい時があっても、みんなで慰め合って、助け合って、また元気に風俗嬢としてホテルからホテルへと渡り歩く。もともと友だちは多い方だったけど、ここまで腹を割って、甘えられる存在が得られるなんて、「キャッツ」で働く前は思わなかった。
こんな日常が、ずっと続いていくと思ってた。続いていけばいいと思ってた。いつまでも若くて可愛い女の子でいられない事はわかってるけれど、十八歳になったら「キャッツ」を卒業して、堂々と身体を売る事がしいて言えば今のやりたい事だった。そして、若いうちに客の中から金持ちを捕まえて、寿退職。祐平より好きになれる人はいないけれど、千人の男と寝たら、きっと祐平の事は遠くなって、いつかは気持ちに区切りをつけられると思ってた。
そんな日々が、こんなにもあっさりと崩れ去ってしまうなんて。
薫たちは心の底からあたしを心配し、言葉通り、西さんと東さんにあたしの身に起こった出来事を話してくれた。西さんから一度、電話が来た。とにかく、家から出ないように。辛いかもしれないけれど、今はじっと耐えていて――そんな内容の電話。警察にマークされている「キャッツ」からしても、指名手配中の女の子を雇っているという事実は大変なことらしい。
食べ物と煙草は、薫たちが毎日山ほど買ってきてくれた。でもあたしが欲しがるのはマルボロばかりで、お腹がちっとも好かなかった。コンビニの菓子パンはどれも似たような味だし、カップ麺は汁がどんより濃くて吐きそうになった。四六時中家にこもってダラダラと寝てばかりいるのに、体重は三キロも落ちた。Cカップまでふくらみかけた胸も、今は心持ちハリがなくなったような気がする。
毎日ニュースをチェックしては、あの火事に関する続報が流れないかと待っている。でもニュースは毎日の暑さや、熱中症患者が相次いで病院に搬送されてるとか、芸能人の誰々が結婚して誰々が離婚したとか、そんな本当にどうでもいい情報ばっかり垂れ流して、あたしが知りたいことはちっとも教えてくれない。
誰か、教えてよ。うちの親は、なんで死んだの? 事故だったの? 放火だったの? それとも、一人娘を家出という形で失って、絶望して家に火を点けて自殺を図った?
親に対する後ろめたさも申し訳なさも生きているうちにああすればよかったこうすればよかったという後悔も、まったく感じないけれど。なんで死んだのか、という事は妙に気になっていた。
だって、あたしは正真正銘、天涯孤独の身になってしまったんだから。
携帯電話からaikoの歌声がする。この着信音に設定したのは、一人しかいない。
「もしもし」
『もしもし、元気?』
そう言う律希ほど、声にちっとも元気がなかった。あれからもまた一人で「副業」を続け、疲れてしまっているのだと察する。
『千咲は、元気?』
「まったく。今、仕事行ってない」
『何かあったの?』
「親が死んだ。あたしは何か事情を知ってるんじゃないかって、警察に追われてる」
しばらく、時が止まったかのような沈黙があった。
最上階まで上ってきた蝉がベランダの鉄柵にへばりつき、じーじー、とはた迷惑な声で鳴きだした。
『大変、だったんだね』
「もう、すっごく大変だよ。しばらく外出れない」
『そうか、警察に追われてるって事は、外にも出れないのか……』
律希が何を言いたいのか、だいたい察していた。
あたしたちは何度も肌を重ね、恋人同士ですらにないにしろ、お互いの言いたいことがツーカーでわかる間柄になってしまった。
律希はきっと、あたしを欲してくれてるんだ。
「今、友だちの家に隠れてるから。その近くまで来てくれれば、会えるよ。あまり長い時間は無理だけど」
『わかった、行く。今日は僕、休みだから』
「何時頃になりそう?」
何往復かやり取りがあった後、十八時から薫の家にいちばん近い喫茶店で会うことに決めた。
この喫茶店は、前から何度も目の前を通り過ぎていて、一度入ってみたいと思ってた。カフェ、じゃなくて、喫茶店。飲み物もフードも最低限のメニューしか揃ってないし、店内にはお洒落な家具も飾ってない。その代わりいつもテレビがついていて、近所に住んでいるであろうおじいちゃんたちが煙草を吸いながらダベっている。いくらでも長居してくれて構わないというように、店内には雑誌や漫画も並べてある。
潰れないのが不思議な店だけど、テレビを観ながらわかばを吸っているおじいちゃんたちは、ここの常連なんだろう。店長は六十歳くらいの気さくな女の人で、あたしのマスタードイエローのタンクトップにショートパンツといういで立ちを見て、スタイルがいいのねぇ、わたしも若い頃そういう服着てたわ、だなんて言ってくる。
念のため、店内を確認する。私服警官っぽい人、この場にそぐわないような雰囲気の人は、今のところ、いない。
十分後、律希が現れた。駅から走ってきたのか、額が汗びっしょりだった。オレンジジュースをオーダーし、向かい合ってしゃべり始める。
「久しぶりだね」
「うん、本当に久しぶり」
「毎日、何してるの?」
「特に何も。テレビ観たり、携帯いじったり、煙草吸ったり。お陰で最近、すっかりヘビスモ」
言いながらあたしはマルボロに火を点ける。物分かりの良さそうな店長さんは、あきらかに未成年の客が煙草を吸い始めても、咎めようとしない。
「良かった。千咲、思ってたより元気そうで」
「あたしも。律希が元気でいて、本当に良かった」
「でも、無理しなくていいからね。親をいっぺんに亡くすなんて、ちゃんとした親がいたことない僕には想像つかないけれど……とても、受け入れがたい事のはずだよね」
あたしは小さく、首を横に振る。
「ううん、別にいいの。親のこと、ウザくて嫌いだとしか思ってなかったから。それより、警察に追われてる事のほうがヤバい」
「本当に……本当に、悲しくないの? 親のこと」
「悲しくない」
あたしは、はっきり言った。
今、自分に欠落しているものがはっきりわかった。
それは、自分を生み出し、育ててくれたものに対する敬愛の念。
一人っ子で甘やかされて育ったあたしにとって、親はATM機能つきの奴隷みたいな存在だった。だから夜帰りが遅いだの、勉強をしないだの、中学生にして髪を染めただの、そういう事でいちいち注意してくる親に対し、「ウザい」以外の感情しか持てなかった。あたしは、両親をまったく尊敬してないし、両親に心配をかけたくないという、普通に育った子どもなら当たり前に持っているという良心の呵責が決定的に欠けている。両親の叱責は、奴隷が主に口答えするようなものにしか思えなくて、あたしの心をささくれだたせた。
あたしは、両親をほんのひと欠片も愛していなかった。
だからこんな時でも悲しみは湧いてこないし、自分に及ぶ警察の捜査の手ばかり、怖がっている。
「本当にちっとも、悲しくないの。気になるのは、警察の手がいつあたしに及ぶかどうか。家出して行方不明になる女の子なんて珍しくないけれど、その家で火事が起こって死人が出たら、警察の疑いの目はまず間違いなく、あたしに向くだろうし。要はあたしって、すごく冷たい人間なんだよね。自分を愛して、産んで育ててくれた人たちの事を、まったく愛してあげられない」
「千咲のお父さんとお母さんは、どんな人だった?」
オレンジジュースのストローから口を離し、律希が言う。
「もう、ものすごく甘やかされてたよ。欲しいものはなんでも買ってもらえたし、おもちゃ屋で欲しい! 欲しい! って暴れれば、たいていのものは買ってくれた。動物園でも水族館でも、行きたい場所にはどこにでも連れて行ってくれた。お小遣いこそ少なかったけれど――だからこそエンコーにハマっちゃったんだけど――あたしにとってはキレるだけで簡単に操縦できた、ATM機能つきの奴隷ロボットだったよ」
「それって、本当に甘やかされてたの?」
律希は、笑っている。だけど、声が固い。
「そうやって、欲しいものを買ってくれて、行きたい場所に連れて行ってくれて。千咲は、どうだった? それで、親の愛情を感じられた? 心の底から嬉しい、って思えた?」
「嬉しいよ、そりゃ。なんでもあたしの言うこと、聞いてくれるんだもん。でも、それはあたしの奴隷なんだから当たり前。感謝なんて一度も、したことない」
「千咲、子どもの頃に親から褒められた経験って、ある?」
律希の口調が急に真面目なものになった。店内で流れているテレビのニュースの前で、おじいちゃんたちがああでもない、こうでもないと、真剣に議論を戦わせていた。
「褒められた経験。もしくは、思いきり抱き締めてもらった経験」
「そういえば……ほとんどないな」
学校での成績はいつも標準の少し下くらいだったし、テストの答案を見せる度なんでもっと頑張れないの、と「奴隷」に言われる事が苦痛だった。抱きしめられた事なんて、たぶん二歳とか三歳くらいの事だろうけれど、そのへんの記憶なんてない。
「千咲は、甘やかされてたんじゃない。むしろ、逆だよ。千咲の親は、変な形で愛情を表現していた。物を買ってあげたり、行きたいところに連れて行ってあげたり。でもそんな愛情表現は、ちっとも千咲に届いていなかった。千咲が親のことをウザくて嫌いでたまらなくて、死んでもなんの感傷も湧き上がらないって、当たり前のことだと思う」
「あたし……親に愛されてなかったの?」
律希は悲しそうに首を振った。
「愛されてはいたと思うよ。ものすごく愛されてたと思うよ。でも千咲は、その愛を受け止められない人間になった。親を悲しませるからこんな事はしちゃ駄目だとか、そんな、当たり前の思考を持てなかった」
「そんなの、反抗期の時はみんなそうじゃない?」
「千咲の場合は、反抗期なんて生易しいものじゃないよ。普通の子なら、いくら反抗期でも、親のことを気にする。親はいくらウザくても大切な存在なんだから、泣かせたくないって思う。その感情が、千咲には決定的に欠けてると思う」
はっきり口に出されて言われて、胸の奥に大きな錐を突き立てられたような気分になった。
あたしは、ロボットと同じだ。感情を持たず、自分にとって利益をくれる存在としか付き合えない。ものすごくタチの悪いロボットだ。主不在の、どこまでも自分の気持ち良さだけを追い求めて、心配してくれる人の事を顧みない。
祐平の言うとおり。あたしは決定的に欠落している。
「千咲がその祐平って男の子をものすごく好きになったのも、親からの愛情不足に起因してると思う。セッションやってると、そういう人って別に、珍しくないんだ。親から愛されないで育った人は、恋愛に対する欲求が人一倍、強くなる。片思いの彼を振り向かせようと頑張る事で、親に愛されなかった痛みを埋めようとする」
「それってやっぱり、愛されて育ってないってことじゃない」
声が、震えていた。律希は首を振った。
「愛されてはいたんだよ、間違いなく。でもその愛情の与え方は間違っていたし、千咲を親を愛せない人間に育ててしまった。それは、千咲の親の失敗だ。千咲は、悪くないよ。むしろ千咲が祐平のことをすごく好きになったのも、忘れたくてあてずっぽうに自傷行為ともとれるセックスを繰り返すのも、はっきり言って親の育て方に原因があると思う」
「律希って、まるでカウンセラーみたい」
そう言うと律希は不器用に笑った。
店内には、昭和の歌謡曲とテレビから鳴る音が相まって、変なメロディが鼓膜をじんじん、震わせる。あたしは無言でオレンジジュースを飲み、マルボロを吸った。律希も自分のオレンジジュースを黙って飲んでいた。
自覚してしまった悲しい事実を、どう受け止めていいのかわからなかった。
「う」
ふいに、律希がうめき声を上げる。目の前の律希は顔を歪ませ、頭を抱える。前髪からのぞくおでこに、歳に相応しくない皺が何本も浮き出ている。
「律希、どうしたの!?」
「いや、ちょっと、頭が……」
「大丈夫!?」
どう見ても、大丈夫じゃなかった。
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