五時五分前に出勤した途端、西さんはてきぱきとあたしたちに指示を出す。
「薫ちゃんは十五分後に百二十分で予約。千咲ちゃんは二十分後から。聖良ちゃんとひよりちゃんは六時からね」
「ひゃー。いきなり仕事かー。まじウザっ」
言いながら薫はメイクポーチを取り出し、さっそくメイクをする。薫のお気に入りのマウジーのロゴが入ったポーチだ。
「そんなこと言わないでよ、忙しいってのはありがたいことなんだから。君たちが働いてくれるおかげで、俺は家賃も電気代も水道代も払えるんだよ」
「そりゃあ、お茶引くよりかはいいけどさー」
薫はつけ睫毛を直しながら、まだブーたれている。人気ナンバーワンの薫なのに、仕事に対する意欲は薄い。
「今日は忙しくなるよ。さっきから電話、鳴りっぱなしだもん。薫ちゃんは九時からも予約入ってるからね」
「新規? リピート?」
「ナカジマさんだよ」
「げっ、ナカジマってあの、ハゲ、デブ、キモイ、三拍子揃ったオヤジでしょ? あいつとキスする時、あたしいつも吐きそうになるんだよねー」
「そんなこと言わないでよ。太客なんだから」
ブーたれたままメイクを直した薫はブーたれたまま東さんに連れられて部屋を出て行って、カラオケ館の一室はあたし、聖良、ひより、西さんの四人きりになった。西さんがふー、とため息を吐く。
「なんたって薫ちゃんは、あんなに仕事にやる気ないかなぁ。せっかく人気ナンバーワンなのに」
「単に、オヤジとセックスするのが嫌いなんでしょ? あたしも嫌いだし」
ずばりと言い放ってやると、何がそんなに面白かったのか、聖良とひよりがきゃらきゃら笑ってる。
「千咲ちゃんはそんなにオヤジ、嫌い?」
「嫌い。大嫌い。セックスって不思議だよね、若いイケメンの客だとめっちゃ気持ちいいのに、キモいオヤジだと何されても気持ち悪いだけ。若いイケメンがちょうちょなら、オヤジはゴキブリだよ。誰だってゴキブリとセックスしたくない」
「てことは、俺もゴキブリ?」
「ゴキブリまではいかないけど、カミキリムシってところじゃない?」
姿を曖昧にしか思い浮かべられない虫の名前をとりあえず挙げると、また聖良とひよりがきゃらきゃら笑った。西さんは、カミキリムシ。どんな虫かよくわからないけれど、カミキリムシってシュールな響きがたしかによくマッチする。
「そうかー。俺はカミキリムシなのかー。でも千咲ちゃん、お客さんの前では絶対そんなこと、言っちゃ駄目だよ」
「もちろん言わないですよ。あたしだって、プロだもん。ゴキブリの前でも、ゴキブリ気持ちいいってフリ、ちゃんとします」
「そうそう、違法風俗だけど、私たち、プロだもんね。どんなにキモくても嫌でも、仕事中は本音は顔に出さない! ひたすら、お金のことだけ考える!」
「わかるー。この後、このお金で何買おうかって、それ考えるだけであの苦痛もちょっと和らぐんだよね」
「どちらにしろ、俺らオヤジはちょうちょにはなれないわけね」
西さんがため息交じりに呟いて、あたしと聖良とひよりはきゃはは、と声を合わせて笑った。
西さんは、いい人だ。十八歳未満を雇う違法風俗のオーナーなんて、傍から見ればとんでもない悪人かもしれないけど、いい人だ。あたしたちに優しいし、神経を逆撫でするようなことは絶対言わないし、仕事で危ない目に遭わないよう、いつも気を遣ってくれる。
ウザい以外の感情は一切ない親に対し、西さんは立派で素敵な大人に見える。容姿はどうマイルドに表現しても、カミキリムシだけど。
仕事は深夜の四時まで及んだ。終わった後はもうくたくたで、HPは限りなくゼロに近く、メイクを落とす気力もないまま西さんがとってくれた四名までOKのラブホテルの一室、ダブルベッドの中に潜り込んだ。泊まるのはあたしと薫と聖良とひより、それに西さん、五人だから実はルール違反。でもこのホテルの人は、そんなにうるさくはない。会計も入り口の自動精算機を使うから、従業員と顔を合わせることもないし。
一晩で三人の男と寝ると、さすがに疲れる。まもなく瞼が重くなり、死に限りなく近い眠りの世界に引きずり込まれる。久しぶりに、祐平の夢を見た。夢の中であたしは幼稚園生で、祐平も幼稚園の頃の姿をしていた。二人で一緒に、お風呂に入った。祐平の小さなちんちんを引っ張ると、祐平はいてー、と大袈裟な叫び声を上げた。その声で、思い出す。ああ、これは夢だと。そして実際にあったことだと。途端に、もう会えない祐平が愛しくなり、裸のまま抱き着いた。祐平はきょとんとしていた。携帯の音が眠りを突き破り、現実に引き戻す。
目覚めた時、まだ携帯は鳴っていた。隣には西さん。その隣にはひより。女の子二人に挟まれて寝ちゃって、西さんってば随分いいご身分だ。携帯はまだ鳴りやまず、眠りの世界から戻ったばかりの頭はくらくら空回りをする。まだ携帯は鳴る。
億劫な身体をベッドから引きずり出し、バッグの中から携帯を探る。知らない番号からだった。イタズラ電話? こんな時間に? まだ朝の九時だ。こんな時間にイタズラ電話をかけているとしたら、世の中には暇な奴もいるものだ。
しつこい呼び出し音に根負けしたように発話ボタンを押す。
「もしもし」
『もしもし、千咲?』
声ですぐにわかった。会ったのはつい昨日のことなのに、なぜか懐かしく思える。
『ごめん、寝てた?』
「寝てた。知らない番号たから、イタ電かと思っちゃったよ」
『ごめん。いつでもかけて、って書いてあったから、こんな時間にかけちゃった』
耳に優しいテノールの響きが、胸をこちょこちょとくすぐる。恋でこそないけれど、あたしは既にこの得体の知れない、ちょっと面白いゲイの男の子に、興味を抱いていた。
「かけてくれて嬉しい。連絡くれて、ありがたいよ」
『本当? よかったら今度、会えない? できれば今夜がいいんだけど、千咲、仕事?』
「ううん、今夜は休みだから大丈夫だよ」
嘘をついた。本当は今夜も仕事だけど、私用が出来たので行けなくなりました、と言ったら西さんは渋い顔をするだろう。
そんなことはどうでもいいくらい、また律希に会いたかった。律希の丸い目を、覗き込みたかった。
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